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アートへの招待11 仏像の“美”と、お水取り展

文化ジャーナリスト 白鳥正夫

お寺にあって礼拝の対象である仏像も、美術館や博物館に出開帳すれば“美”の対象だ、アメリカの哲学者で日本の美術に造詣の深いアーネスト・フェノロサが見惚れたという天平彫刻の最高傑作が、昨年の東京国立博物館に続き、奈良国立博物館の特別展「国宝 聖林寺十一面観音 ―三輪山信仰のみほとけ」(~3月27日)に出陳されている。また同館なら仏像館でも「重要文化財 金峯山寺 金剛力士立像」(~令和10年度予定)を特別公開中だ。さらに毎年、東大寺でお水取りがおこなわれるこの時季にあわせて開催する恒例の特別陳列「お水取り」(~3月27日)も併催中だ。 注目の《国宝 十一面観音菩薩立像》が奈良国立博物館で公開されるのは、1998年の特別展「天平」以来24年ぶりという。その比類なき美しさを鑑賞するとともに、コロナ禍の終息を博物館の仏像にお祈りしてはいかがだろう。

奈良国立博物館の特別展「国宝 聖林寺十一面観音 ―三輪山信仰のみほとけ」

360度、ガラスケース無しで間近に拝観

奈良県桜井市にある聖林寺の国宝《十一面観音菩薩立像》は、天平彫刻の名作で、日本を代表する仏像のひとつだ。法隆寺の国宝《地蔵菩薩立像》などとともに、江戸時代までは同市の大神(おおみわ)神社に祀られていた。大神神社は本殿を持たず、三輪山を拝む自然信仰をいまに伝えている。

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国宝《十一面観音菩薩立像》(奈良時代 8世紀、奈良・聖林寺蔵)

三輪山を御神体としていた大神神社では、神は山、滝、岩や樹木等に宿ると信じられ、本殿などの建築や、神の像はつくらず、自然のままの 依代(よりしろ)を拝んでいた。その後、国家的に仏教を興隆した奈良時代には神と仏の接近が見られ、神社に付属する寺がつくられ、大神神社にも大神寺(鎌倉時代以降は大御輪寺)が建てられ、仏像が安置された。明治元年、新政府により神仏分離令が発せられると、寺や仏像は苦難にさらされ、大御輪寺の仏像は、同寺の住職や周辺の人々の手によって、近傍の寺院に移された。

今回の展覧会では、かつて大神寺にあった国宝の《十一面観音菩薩立像》や、《地蔵菩薩立像》(法隆寺蔵)をはじめ、《日光菩薩立像》《月光菩薩立像》(正暦寺蔵)も展示されていて、これらの仏像が一堂に会すのは約150年ぶりという絶好の機会でもある。このほか仏教伝来以前の日本の自然信仰を示す三輪山禁足地の出土品をなど、自然そのものを拝み、三輪山を御神体とする“三輪山信仰”を象徴する仏像や史料が揃う。

主な出陳品を画像とともに掲載する。まず国宝《十一面観音菩薩立像》(奈良時代 8世紀、奈良・聖林寺蔵)は、威厳のある表情とともに、均整のとれた体躯(たいく)、すらりとした佇まい、しぐさの美しさを誇る。その素晴らしい魅了されたフェノロサは、秘仏の公開を促し、保護を提唱した。今回の奈良展の展示では、ガラスケース無しで間近に360度さまざまな角度から拝観できる。

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国宝《十一面観音菩薩立像》(正面部分)

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国宝《十一面観音菩薩立像》(横面部分)

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国宝《十一面観音菩薩立像》(横面部分顔拡大)

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国宝《十一面観音菩薩立像》(正面部分顔拡大)

同じく国宝《地蔵菩薩立像》(平安時代 9世紀、奈良・法隆寺蔵)は、明治時代初頭に大御輪寺から聖林寺、さらに法隆寺へと移された。ヒノキ材の一木造りで、太づくりの体躯は実在感にあふれ、顔立ちは平安時代初期の密教彫刻に通じる。美しく整えられた衣の襞も見どころ。現存する地蔵菩薩像のなかでも最も古い優品の一つだ。

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国宝《地蔵菩薩立像》(平安時代 9世紀、奈良・法隆寺蔵)

《日光菩薩立像》(平安時代 10~11世紀、奈良・正暦寺蔵)は、《月光菩薩立像》とともに、大御輪寺から奈良市菩提山町の正暦寺(しょうりゃくじ)に移された仏像で、神仏分離前の三輪山信仰の形を伝える遺宝の一つ。ケヤキ材の一木造りで、高い宝冠や大ぶりな目鼻立ちや大きな耳、腰高で抑揚のあるプロポーションなど、平安時代前期の古様を示している。

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《日光菩薩立像》部分(平安時代 10~11世紀、奈良・正暦寺蔵)

一方、《月光菩薩立像》(平安時代 10~11世紀、奈良・正暦寺蔵)も、《日光菩薩立像》とともに、大御輪寺からに移された。こちらはヒノキ材の一木造りで、平安時代後期の様式に通じる面長で穏やかな面相など、日光菩薩像と作風が異なるが、奥行に厚みがある表現など平安時代前期風の要素もとどめている。

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《月光菩薩立像》部分(平安時代 10~11世紀、奈良・正暦寺蔵)

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《日光菩薩立像》《月光菩薩立像》と三輪山写真パネルの展示風景

仏像のほか、《大国主大神立像》(平安時代 12世紀、奈良・大神神社蔵)は、 平安時代にさかのぼる大国主大神(大黒天)像として貴重だ。大国主大神は、大神神社に配祀(主祭神にそえて祀られること)される大己貴神(おおなむちのかみ)のこと。日本では大国主大神は、仏教の大黒天と同一視されたため、袋を肩にかけた大黒天の姿で表される。古い作例で、険しい表情をしている。

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《大国主大神立像》(平安時代 12世紀、奈良・大神神社蔵)

《大般若経》(平安時代 12世紀、奈良・大神神社蔵、会期中展示替あり)は、 大神神社に伝来した。書風等から12世紀の書写と推定され、当初の600巻のうち500巻以上が現存している。「三輪山絵図」の画中に描かれる「大般若経蔵」に、かつて納められていたと思われる。神仏習合のあらわれとして、神社に伝来した仏典だ。

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《大般若経(巻第十一)》(平安時代 12世紀、奈良・大神神社蔵、会期中展示替あり)

重要文化財の《朱漆金銅装楯》2面[日輪・月輪](鎌倉時代 嘉元3年・1305年、奈良・大神神社蔵)は、日月を金銀で表わす一対の大楯。楯は敵の攻撃を防ぐ威力の象徴であり、その力を恃んで祭礼で用いられた。その現存例で年紀を有するため、儀式に用いる武器の基準作として位置付けられる。

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左:重要文化財《朱漆金銅装楯 月輪》 右:重要文化財《朱漆金銅装楯 日輪》 いずれも(鎌倉時代 嘉元3年・1305年、奈良・大神神社蔵)

さらに三輪山禁足地および周辺出土の《子持勾玉(こもちまがたま)》(古墳時代 5~6世紀、奈良・大神神社蔵)も出品されている。勾玉は伝統的な装身具で、祭祀の供え物としても多く用いられた。子持勾玉は、玉が玉を生むような姿から、魂の再生や豊穣を祈る祭具と考えられる。

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《子持勾玉》(古墳時代 5~6世紀、奈良・大神神社蔵)

このほか三輪山禁足地出土の《土師器 坏》や《土師器 坩》(いずれも古墳時代 5~6世紀、奈良・大神神社)、桜井市 山ノ神遺跡出土の石製品や土製品なども出品されている。

奈良国立博物館・なら仏像館の特別公開「重要文化財 金峯山寺 金剛力士立像」

像高5メートルに達する「阿吽」の2巨像

奈良県吉野町に位置する金峯山寺(きんぷせんじ)の重要文化財《金剛力士立像》2躯が特別公開されているので、お見逃しなく。この《金剛力士立像》は、金峯山寺仁王門(国宝)に安置されている。像高5メートルに達する巨像で、彫刻部門の指定品の中では東大寺南大門像に次いで2番目の大きさだ。像内の銘文より南北朝時代の延元3年(1338年)から翌年にかけて南都大仏師康成(こうじょう)によって造られたことが分かっている。

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重要文化財《金剛力士立像》(南北朝時代 延元3‐4年・1338‐39年、 奈良・金峯山寺蔵)

2つの像は、令和元年(2019年)夏に仁王門の修理のために搬出され、奈良国立博物館の文化財保存修理所へと移動し、現在保存修理が進められ昨年完了した。この像は、金峯山寺仁王門(国宝)に安置されているが、仁王門の修理完了まで(令和10年度予定)特別公開されることになっている。

2躯の《金剛力士立像》は、二王門の西に安置されるのが口を開かれた阿形像、東が口を閉じられた吽形像という。「阿」は物事の根源を意味し、「吽」は一切の物が帰着する智徳を意味する。「阿吽の呼吸」とは慣用句として使われるが、2人以上で物事を行う際に息が合っていることを表す。言葉がなくても意思の疎通ができており、阿吽が揃っているからこそ、金峯山寺を守護して来られた、と伝えられている。

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《金剛力士立像》の展示風景

奈良国立博物館の特別陳列「お水取り」

二月堂縁起や曼荼羅など行事示す66件

お水取りは東大寺二月堂で行われる仏教法会で、正式には修二会(しゅにえ)と言われ、春を告げる風物詩だ。3月1日から14日間にわたる本行では、心身を清めた僧(練行衆)が本尊の十一面観音の前で宝号を唱え、荒行によって罪過を懺悔し、天下安穏などを祈願する。天平勝宝4年(752年)に東大寺の実忠和尚(じっちゅうかしょう)が初めて執行して以来、一度も絶えることなく約1270年にわたって実施され続けてきた。

この年中行事に連動する奈良国立博物館の「お水取り」は、実際に法会で用いられた法具や、歴史と伝統を伝える絵画、古文書、出土品などを展示している。今年は《二月堂縁起》など、重要文化財19件を含む66件が出陳されている。

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重要文化財《二月堂本尊光背 頭光》(奈良時代 8世紀、東大寺蔵)などの展示風景

主な出陳品に、《二月堂縁起絵巻》2巻(室町時代 天文14年・1545年、奈良・東大寺蔵)は、修二会の創始や二月堂観音の利益(りやく)にかかわる説話を表した絵巻。図版は、本尊の十一面観音に供える香水(こうずい)が湧き出た場面だ。画面下の岩から白黒2羽の鵜が飛び出し、そこから香水が湧き出した。現在の閼伽井屋(あかいや)はその場所で、この香水を汲むことから修二会は「お水取り」と呼ばれている。

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《二月堂縁起絵巻》2巻(室町時代 天文14年・1545年、奈良・東大寺蔵)

《二月堂曼荼羅》(室町時代 16世紀、奈良・東大寺蔵)は、修二会の本尊である十一面観音が、雲に乗って二月堂の上空に現れている。右下の閼伽井屋付近には黒・白二羽の鵜が描かれ、鵜に続いて香水が湧き出たという「お水取り」の由来にかかわる説話を表している。説話では、二月堂の本尊は閼伽器(あかき)の上に乗って海の彼方から現れたとされるが、この絵では雲に乗って現れる「来迎(らいごう)」の姿で表されている。

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《二月堂曼荼羅》(室町時代 16世紀、奈良・東大寺蔵)

重要文化財の《香水杓(こうずいしゃく)》2枝(鎌倉時代 建長5年・ 1253年と建長7年・1255年、いずれも奈良・東大寺蔵)は、二月堂本尊に香水を供えた後、堂内の参詣者に香水を分ける際に柄杓として用いた。銅製で、注口のついた形はお水取り独特のもの。壺の側面に線刻銘(せんこくめい)があり、製作年代と施入者が分かる。

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重要文化財《香水杓》2枝(鎌倉時代 建長5年・ 1253年と建長7年・1255年、いずれも奈良・東大寺蔵)

《錫杖(しゃくじょう)》4柄(江戸時代 18~19世紀、奈良・東大寺蔵)は、僧侶が用いる道具。山野での遊行(ゆぎょう)や托鉢(たくはつ)に用いられたほか、儀礼に当たって宗教的雰囲気を高めるためにも使用された。本品は、修二会の下七日(げしちにち)、後半の7日間の初夜と後夜(ごや)の最後におこなわれる「錫杖」の儀礼に際し、鈴とともに打ち鳴らされる。頭部に刻まれた銘文から修二会に用いるために二月堂に寄進されたものであることが分かる。

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《錫杖》4柄(江戸時代 18~19世紀、奈良・東大寺蔵)

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重要文化財《二月堂神名帳》(室町時代 大永8年・1528年、奈良・東大寺蔵)

さらに重要文化財の《二月堂神名帳(じんみょうちょう)》(室町時代 大永8年・1528年、奈良・東大寺蔵)は、修二会の期間中、練行衆が1日に6度おこなう勤行のうち、初夜の行中に読み上げられるのが神名帳だ。これは、日本各地の神々を二月堂の守護神として勧請(かんじょう)するためのもので、練行衆による他の声明と同じように、独特の節とリズムが付けられている。本品は二月堂の神名帳の写本では現存最古のもので、読み仮名や読み上げ時の節を示す注記も付けられている。

重要文化財《処世界日記》の処世界は、修二会を勤める練行衆(現在は11名)のうち末席の役で、法会の様々な雑用を担当。この書物は、修二会で処 世界がおこなうべき事柄を概ね時間順に記したもので、華籠(けこ)や香箱(こうばこ)の準備から灯明皿の配置の仕方、勤行のはじ めに鐘を打つタイミングなど、細々とした所作が丁寧に記述されている。

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重要文化財《処世界日記》(江戸時代 寛文7年・1667年、奈良・東大寺蔵)

文化ジャーナリスト。ジャーナリズム研究関西の会会員。平山郁夫美術館企画展コーディネーター・民族藝術学会会員。 1944年8月14日生まれ 愛媛県新居浜市出身。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。 著書に『シルクロード 現代日本人列伝』『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』『無常のわかる年代の、あなたへ』『夢追いびとのための不安と決断』『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ!』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(いずれも東方出版)『アート鑑賞の玉手箱』『アートの舞台裏へ』『アートへの招待状』(いずれも梧桐書院)など多数。