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アートへの招待15 清方と蕪村、京都で注目の2展覧会

文化ジャーナリスト 白鳥正夫

新型コロナ感染防止の制限緩和が進む中、京都では2つの展覧会に注目だ。気品あふれる女性像や失われゆく明治の風物を郷愁豊かに描き、大正期から戦後にかけて人気を集めた日本画家、鏑木清方(かぶらき・きよかた)の「没後50年 鏑木清方展」が京都国立近代美術館で7月10日まで開催中だ。近代日本画壇の美人画の最高峰に位置付けられながら長らく行方が分からなくなっていた代表作の《築地明石町》が出品されている。一方、江戸時代中期の俳人で、文人画で知られる与謝蕪村(よさ・ぶそん)の新しく見つかった作品の特集展示 新発見!蕪村の「奥の細道図巻」が、京都国立博物館で6月14日から7月18日まで開かれる。こちらでは蕪村が敬愛していた松尾芭蕉の俳諧紀行『おくのほそ道』が刊行されてから320 年となる節目の年に発見された、蕪村の5件目の《奥の細道図巻》が披露される。

京都国立近代美術館の「没後50年 鏑木清方展」

《築地明石町》《新富町》《浜町河岸》の三部作出揃う
 初公開を含む109件の日本画作品が出品の大回顧展

美人画と言えば「西の松園、東の清方」と、上村松園と並び称された鏑木清方の大回顧展で、東京国立近代美術館に続く巡回展。京都でこれほどの規模の回顧展は約半世紀ぶりで、チラシ表面に「45年ぶりの京都です。」と謳われている。《築地明石町》(1927年、東京国立近代美術館蔵)をはじめ、2018年に再発見された《新富町》、《浜町河岸》(ともに1930年、東京国立近代美術館蔵)の三部作が出揃うのは関西で初めてで、初公開を含む109件の日本画作品が出品(会期中一部展示替え)されている。

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「45年ぶりの京都です。」《築地明石町》など三部作の掲げられた京都国立近代美術館の入口

関西では松園ほど有名でないにしても、清方の作品は、昨年夏に大阪歴史博物館の「あやしい絵」展に出品された異色作《妖魚》(1920年)が話題となり、昨年末から年初にも大阪・あべのハルカス美術館の「コレクター福富太郎の眼」で《妖魚》を含む13点が展示されるなど、関心を高めていた。

鏑木清方(1878-1972)は、戯作家・新聞社主宰として知られる条野採菊の長男として東京・神田で生まれた。13歳のとき、父の勧めに従い、歌川国芳の孫弟子に当たる浮世絵師・日本画家の水野年方に入門し、挿絵画家を目指した。挿絵の依頼を受けるようになり始めた1897年、挿絵画家のグループ・紫紅会を結成。1901年には紫紅会の仲間と烏合会を結成し、同会で《一葉女史の墓》など文学作品に取材した作品を発表。文部省美術展覧会の開設(1907年)を契機に日本画に転向した。

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ポートレート 鏑木清方(1956年)

1916年には、平福百穂、結城素明らと金鈴社を創立(22年に解散)。第6回帝展(1925年)に《朝涼》を無鑑査出品し、翌々年の第8回帝展では《築地明石町》で帝国美術院賞を受賞するなど高い評価を得る。展覧会で鑑賞する「会場芸術」や、掛け幅などの「床の間芸術」に対して、手元で楽しむ「卓上芸術」を提唱した。浮世絵系の挿絵画家からスタートし、美人画だけでなく、晩年に至るまで、庶民の暮らしや文学、芸能のなかに作品の主題を求め続けた。

今回の展覧会の一番の見どころは、切手の図柄にもなった《築地明石町》と、《新富町》《浜町河岸》の三部作(いずれも東京国立近代美術館蔵、通期展示)に加え、《築地明石町 下絵》(1927年、~6月26日展示)と、《新富町 下絵》(1930年、~6月19日展示)、《 浜町河岸 下絵》(1930年、いずれも鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵、6月21日~展示)も出品され、本画と下図と見比べて制作過程も鑑賞できる。

展示構成は、東京展は作品のテーマ分けだったが、京都展では制作年順に4章に建てで展開。清方がいかに模索しながらスタイルを確立していったか、その画業を辿っている。代表作を画業とともに掲載する。

1章が「木挽町紫陽花舎・東京下町にて(明治)」。明治36年(1903年)に結婚した清方は、東京・京橋木挽町の家を自身の別号でもある「紫陽花舎(あじさいのや)」と呼んだ。

この頃の作品では、《雛市》(1901年、公益財団法人 北野美術館蔵、通期展示)は、 弥生の節句を控えた 雛市で 雛人形を母親にねだる華やかな着物の女の子の前で、足を止めた桃の花をかついだ裸足の女の子を対比して描いている。清方の庶民感覚が見てとれる。

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鏑木清方《雛市》(1901年、公益財団法人 北野美術館蔵、通期展示)

《一葉女史の墓》(1902年、鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵、通期展示)は、幼少期より本が大好きだった清方が泉鏡花の『一葉の墓』を読んでその墓を訪ねた時、清方は線香の煙の向こうに『たけくらべ』のヒロイン・美登利の幻を見たと言う。その体験に想を得て描かれた。このほか1章には、《曲亭馬琴》(1907年、鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵、~12日展示)や、《西鶴五人女 おさん》(1911年、福田美術館蔵、~19日展示)も。

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鏑木清方《一葉女史の墓》(1902年、鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵、通期展示)

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1章の展示風景。右側が《曲亭馬琴》(1907年、鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵、~12日展示)と《西鶴五人女 おさん》(1911年、福田美術館蔵、~19日展示)

2章は「本郷龍岡町・金沢游心庵にて(大正)」。大正9年(1920年)、美術評論家の関如来が横浜市金沢の敷地内に建つ四阿(あずまや)に名付けた名を気に入って、「游心庵(ゆうしんあん)」 と呼んだ。

《道成寺(山づくし)鷺娘》(1920年、福富太郎コレクション資料室蔵、~7月3日展示)は、歌舞伎舞踊2演目に取材した作品で、右が「京鹿子(きょうかのこ)娘 道成寺」、左が「鷺娘」の場面を描く。二人とも異界のものが娘に化身する。

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鏑木清方《道成寺(山づくし)鷺娘》(1920年、福富太郎コレクション資料室蔵、~7月3日展示)

《泉》(1922年、公益財団法人 二階堂美術館蔵、通期展示)は、郊外の作業の場面を写実的に捉えている。《朝涼》(1925年、鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵、6月19日~展示)は、朝霧の漂う空に残月が白く浮かぶ早朝に、おさげ髪の長女の姿を重ねた自信作。

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鏑木清方《泉》(1922年、公益財団法人 二階堂美術館蔵、通期展示)

この章では、さらに「コレクター福富太郎の眼」に出品されていた《薄雪》(1917年)、《社頭春宵(しゃとうしゅんしょう)》(1923年、ともに福富太郎コレクション資料室蔵、~7月3日展示)、《墨田河舟遊》(1927年、東京国立近代美術館蔵、通期展示)なども展示されている。

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2章の展示風景。《墨田河舟遊》(1927年、東京国立近代美術館蔵、通期展示)

3章は「牛込矢来町夜蕾亭にて(昭和戦前)」。昭和7年(1932年)、に建築家、吉田五十八に依頼して矢来町の家を改築した後、ここを「夜蕾亭(やらいてい)」と呼んだ。この章で、目玉の三部作と下絵などが並ぶ。

《築地明石町》は、清方にとっても愛着の深い作品で、みずから所蔵者に貸し出しを頼みに行き、展覧会に出品していたほどだったが、没後しばらくして所在不明となった。黒い羽織を着た女性が朝霧に包まれる旧外国人居留地の明石町(現・東京都中央区明石町)にたたずむ姿を描いている。肩越しに佃島の入り江に停泊する帆船がうっすらと浮かび、右手に見える洋館の水色の柵には朝顔がみずみずしく咲いていて、女性美を鮮やかに表現している。

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鏑木清方《築地明石町》(1927年、東京国立近代美術館蔵、通期展示)

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《築地明石町》部分

《新富町》は、蛇の目傘を手に先を急ぐ新富芸者を、《浜町河岸》は隅田川の新大橋を背に踊りの稽古から帰る町娘を描いている。現在の中央区にある、明石町、新富町、浜町の一帯は、幼少期に築地や京橋に住んだ清方にとって思い出の地で、「古きよき明治」への追憶にあふれた作品でもある。

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鏑木清方《新富町》(1927年、東京国立近代美術館蔵、通期展示)

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《新富町》部分

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鏑木清方《浜町河岸》(1927年、東京国立近代美術館蔵、通期展示)

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《浜町河岸》部分

この三部作は、サイズも表装も同じで、清方がそれぞれのタイトルと署名を書いた内箱が三つ、漆塗りの外箱に並べて収められていたという。《築地明石町》から3年後に三部作がそろった時点で同じ表装と箱が誂えられた可能性が高い。

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《築地明石町》など三部作の展示風景

国の重要文化財に指定された《三遊亭円朝像》(1930年、東京国立近代美術館蔵、 6月28日~展示)は、明治の大噺家・三遊亭円朝が湯飲みを手に聴衆を眺めている。高座に上がった時の円朝のお決まりの姿だという。高座に上がった円朝は噺を始める前に、まず白湯を飲んでいたようだ。父の仕事の関係で幼少時から親しんでいた円朝を、記憶と実物の小物を頼りに描いた。

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重要文化財、鏑木清方《三遊亭円朝像》(1930年、東京国立近代美術館蔵、 6月28日~展示)

明治の市井の人々の暮らしに思いを寄せて描いた作品群のうち、最初期の《鰯》(1937年頃、東京国立近代美術館蔵、通期展示)も。清方が少年期を過ごした明治初め頃、下町の女性が鰯売りの少年から鰯を買おうとしている情景を捉えた。 土間に脱ぎ捨てられたような履物、台所の棚に並ぶこまごまとした品々、路地裏に駆け込む子供の後ろ姿などが活写されている。

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鏑木清方《鰯》(1937年頃、東京国立近代美術館蔵、通期展示)

《雪粉々》(1937年、通期展示)は、雪の積もった庇の下、縁側でチラチラ降る雪を眺める年かさの女性を描いているが、雪景色ではなく、綿入りの着物やぴったりと合わせた手などから寒さを表現している。3章には、12幅対の《明治風俗十二ヶ月》(1935年、東京国立近代美術館蔵、通期展示)もあり、名品のオンパレードだ。

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鏑木清方《雪粉々》(1937年、通期展示)

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3章の展示風景

4章は「鎌倉、終の棲家にて(昭和戦後)」で、文化勲章を受章した昭和29年(1954年)、鎌倉に新居を構えた清方は、この家で亡くなる。享年93の大往生だった。

《朝夕安居》(1948年、鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵、会期中場面替え)は、朝、昼、夕の三つに描いた 画巻で、「卓上芸術」の名作。明治期、市井の人々の安らかな暮らしを表現した、まさに清方の心のふるさとでもあった。

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鏑木清方《朝夕安居(朝)》(1948年、鎌倉市鏑木清方記念美術館蔵、会期中場面替え(朝)は~6月9日展示)

また『苦楽』表紙原画(1947-49年、東京国立近代美術館蔵)17点が一部期間限定で、『苦楽』挿絵原画のうち名作絵物語「金色夜叉」(1948年)や、「日本橋」(1948年、ともに東京国立近代美術館蔵、会期中に場面替え)も出品されていて興味を引く。

清方は、一度だけ関西を訪れたことがあった。昭和5年(1930年)にローマで開催された「日本美術展覧会」のために渡欧する金鈴社の同人だった平福百穂と松岡映丘を神戸埠頭で見送るために、列車嫌いであった清方は自動車を乗り継いで関西へやって来たという。

この時清方を囲んだメンバーや、清方と同時代の日本画家の作品が、「没後50年 鏑木清方展」によせてとして、4階のコレクション・ギャラリーに展示されているので、お見逃しなく。金鈴社の平福百穂の《清江捕魚》(1931年)や結城素明の《秋風》(昭和初期)とともに、関西の美人画家である上村松園の《舞仕度》(1914年)、北野恒富の《日照雨》(1911年)などが出品されている。

「清方=美人画家」と括られがちだが、清方が描きたかったのは「美人」ではなく「人々の暮らし」だったそうだ。読書好き、芝居好きだった清方は、小説や歌舞伎を題材にした作品も数多い。風俗への細やかな眼差しこそ清方の真骨頂がある。清方は次のような言葉を記している。

“需(もと)められて画く場合いはゆる美人画が多いけれども、自分の興味を置くところは生活にある。それも中層以下の階級の生活に最も惹かるる”  「そぞろごと」1935年『鏑木清方文集 一』

主催者は、清方が「需められて」描いた作品を少なくし、代わりに自己評価の高かった作品を積極的にラインナップに加えた、そうだ。清方が残した制作記録のうち、8年分にだけ記された3段階の自己採点をもとに、出品作23点に☆の数でご紹介している。☆☆☆(会心の作)、☆☆(やや会心の作)、☆(まあまあ)の採点から、清方が大事にしたものが見えてくる。

今回の展覧会を企画した東京国立近代美術館の鶴見香織学芸員は図録のおわりに、「清方はさまざまな文章において、どんなジャンルだろうと究極のところ、彼が関心をもつのは生活なのだとはっきり述べている。そして市井の人々の生活の細部にあたたかな目を注ぎ、その世界を市井の人々と分かち合うことを喜びとした。そろそろ清方を『生活を描いた画家』として推してはどうだろうか」と結んでいる。

京都国立博物館の特集展示 新発見!蕪村の「奥の細道図巻」

諸本中もっとも早い時期に制作された新発見の作品
 晩成の画家の関連作品とともに、初めての公開展示

松尾芭蕉を深く敬愛した与謝蕪村による、『おくのほそ道』の全文を書写し、関連する絵を添えた作品は、これまで4件の現存が知られていた。このたび新たに発見された5件目となる作品は、史料のみから知られるものも含め、諸本中もっとも早い時期に制作された作品であり、それらの起点となる重要作と位置付けられる。特集展示では、この蕪村の「奥の細道図巻」を、関連する館所蔵品とともに初公開するものだ。

与謝蕪村(1716~83)は、摂津国毛馬村(現在の大阪市都島区)に生まれる。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。20歳前後で江戸へ出ると、俳人・早野巴人の門をたたく。

巴人没後は下総国結城(現:茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、敬い慕う松尾芭蕉の行脚生活に憧れてその足跡を辿り、僧の姿に身を変えて東北地方を放浪した。絵を宿代の代わりに置いて旅をする。

それは、40歳を超えて花開く蕪村の修行時代だった。その際の手記で寛保4年(1744年)に雁宕の娘婿で下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。42歳の頃に京都に居を構え、与謝を名乗るようになる。母親が丹後与謝の出身だから名乗ったという説もある。

蕪村の作品はしばしば鑑賞している。印象に残るのが、MIHO MUSEUMで2015年夏に開催された特別展「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」がある。国宝の紙本墨画《夜色楼台図》(18世紀、個人蔵)はじめ重要文化財の《鳶・鴉図》(18世紀、北村美術館蔵)が出品されていた。この時にも《奥の細道画巻》(1778年、海の見える杜美術館蔵)があった。また2019年秋、姫路文学館の「生誕120年 文豪川端康成と美のコレクション展」には、池大雅との共作で国宝の《十便十宜図》(江戸時代、1771年)も拝見している。

こうした数々の名作を遺した蕪村の代表作の多くが晩年に描かれた。蕪村は狩野派や明清画の影響が色濃く残る初期の作品を経て、南宋画の系譜を受けた文人画の技法による山水画や、自ら詠んだ俳句と絵画が響き合う俳画などで新境地を拓いた晩成の画家だった。

今回の特集展示では、新発見の与謝蕪村筆《奥の細道図巻》(江戸時代、安永6年‣1777年)をはじめ、 重要文化財の与謝蕪村筆《奥の細道図巻 下巻》(江戸時代、 安永7年‣1778年、京都国立博物館蔵)、横井金谷筆《蕪村筆奥の細道図巻模本》(江戸時代、19世紀、京都国立博物館蔵)が公開される。

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与謝蕪村筆《奥の細道図巻》部分(江戸時代、安永6年‣1777年)

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重要文化財、与謝蕪村筆《奥の細道図巻 下巻》部分(江戸時代、安永7年‣ 1778年、京都国立博物館蔵)

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横井金谷筆《蕪村筆奥の細道図巻模本》部分(江戸時代、19世紀、京都国立博物館蔵)

ところで松尾芭蕉の直筆《野ざらし紀行図巻》も再発見され、今秋から京都の福田美術館にて公開される予定だ。俳句の達人で言葉による表現に長けている芭蕉が、わざわざ絵で何かを表現しようとしたこと自体、とても興味深い。

文化ジャーナリスト。ジャーナリズム研究関西の会会員。平山郁夫美術館企画展コーディネーター・民族藝術学会会員。 1944年8月14日生まれ 愛媛県新居浜市出身。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。 著書に『シルクロード 現代日本人列伝』『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』『無常のわかる年代の、あなたへ』『夢追いびとのための不安と決断』『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ!』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(いずれも東方出版)『アート鑑賞の玉手箱』『アートの舞台裏へ』『アートへの招待状』(いずれも梧桐書院)など多数。