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アートへの招待21 深まる秋、「美の極致」の世界へ

文化ジャーナリスト 白鳥正夫

飛び切り美しい風景を絶景というが、美術においても逸品とか至芸といった表現がある。そうした内容にふさわしい展覧会が関西で催されている。神戸市立博物館で開館40周年記念特別展「よみがえる川崎美術館 ―川崎正蔵が守り伝えた美への招待」が、京都国立博物館では特別展「京(みやこ)に生きる文化 茶の湯」が、ともに12月4日まで開催中だ。奈良国立博物館でも恒例の「第74回 正倉院展」が11月14日まで開かれる。いずれも「美の極致」と言える展覧会だ。深まる秋に探索してはいかがだろう。

神戸市立博物館の開館40周年記念特別展「よみがえる川崎美術館 ―川崎正蔵が守り伝えた美への招待」

日本初の私立美術館、100年ぶりの“再会”

「知る人ぞ知る」日本初の私立美術館が神戸に存在していた。「川崎美術館」は明治23年(1890)9月6日、神戸市布引の川崎邸(現在のJR新神戸駅周辺)に開館した。創設者は川崎正蔵(1837~1912)で、川崎造船所(現川崎重工業株式会社)や神戸新聞社などを創業した、近代日本を代表する実業家だ。明治時代、西洋文化の流入と廃仏毀釈が急速に進むなか、古美術品の海外流出を憂慮した川崎正蔵は、日本・東洋美術史の優品を幅広く収集し、一大コレクションを形成した。

川崎正蔵は、そのコレクションを秘蔵せず、公開することを使命と考え、美術館の建設に着手。こうして誕生した川崎美術館は、正蔵の歿後も大正13年(1924)の第14回展観(展覧会)まで活動したが、昭和2年(1927)の金融恐慌をきっかけにコレクションは散逸し、川崎美術館の建物も水害や戦災によって失われてしまった。しかし正蔵が愛し集めた作品は、今なお国内外で大切に守り伝えられている。

今回の展覧会では、珠玉のコレクションが再び神戸に集い、約100年ぶりに期間限定でよみがえる。正蔵が所蔵していた日本・東洋の古美術品は千数百点の中から国宝2件、重要文化財5件、重要美術品4件を含む絵画、仏像、工芸品約80件と貴重な資料を合わせた約110件が公開されている。

日本の私立美術館としては、大正6年(1917)に大倉喜八郎(1937-1928)が設立した大倉集古館が最初として知られている。明治35年(1902)に自邸内に開館した大倉美術館を前身として、大正6年に財団法人化した私立美術館だ。それに先立ち開館したのが「川崎美術館」だ。ただ大倉集古館が財団法人による初の美術館として一般に公開されたのに対し、川崎個人による「川崎美術館」は、招待客だけが年数日の公開日に観覧できる限定的なものであった。

「川崎美術館」の建物は、室町時代の建築を模した瓦葺2階建の建物で、伊藤博文揮毫の扁額が掲げられ、円山応挙の障壁画で飾られていた。明治32年(1899)11月9日の皇太子啓行に際して瓦葺1階建の「長春閣」を川崎美術館の隣に竣工し、第9回展観以降は、「川崎美術館」と「長春閣」の2館で展観を開催し、大正14年まで計14回の展覧が行われていた。この2館とも、残念ながら昭和13年(1938)の阪神大水害や戦災の被害を受けて現存していない。

展覧会は5章構成。その概要と主な展示品を取り上げる。第1章 は「実業家・川崎正蔵と神戸」で、天保8年(1837)年に幕末の薩摩に生まれた正蔵は、東京に開設した「川崎造船所」を明治19年(1886)神戸に造船所を集約して生活の拠点も神戸に移し、「造船王」とよばれるほど活躍した功績を紹介している。《川崎正蔵翁像》グイード・モリナーリ筆(明治33年[1900]、川崎重工業株式会社、通期)や、川崎造船所写真帳、神戸川崎邸の絵葉書などが展示されている。

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《川崎正蔵翁像》グイード・モリナーリ筆(明治33年[1900]、川崎重工業株式会社、通期)

第2章は「収集家・川崎正蔵とコレクション」。川崎正蔵のコレクションは明治初期から始まり、時代、地域、ジャンルを問わず、金に糸目を付けずに購入した。正蔵の三回忌に朝日新聞創設者の村山龍平、上野理一や古美術商の山中吉郎兵衛が作品選定に協力して、正蔵の養嗣子・川崎芳太郎が編纂し、國華社より刊行された豪華図録『長春閣鑑賞』に掲載された作品を中心とした旧蔵品の展示を通して、正蔵の審美眼に迫っている。

ここでは「川崎美術館外観」川崎芳太郎編『長春閣鑑賞』第6集、國華社(大正3年[1914]、川崎重工業株式会社蔵、通期)はじめ、重要文化財の《広目天眷属像》康円作(文永4年[1267]、静嘉堂文庫美術館、通期)などが出品されている。

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「川崎美術館外観」川崎芳太郎編『長春閣鑑賞』第6集、國華社(大正3年[1914]、川崎重工業株式会社蔵、通期)

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重要文化財《広目天眷属像》康円作(文永4年[1267]、静嘉堂文庫美術館、通期)

第3章 は「よみがえる川崎美術館」で、かつて川崎美術館にあった円山応挙の障壁画から、館内の構成が部分的に明らかになり、1階の上之間、広間、三之間を応挙の《海辺老松図襖》部分(天明7年[1787年]、東京国立博物館蔵、通期)などで再現展示。現存する『陳列品目録』を手がかりに美術館の展観の様子を100年ぶりによみがえらせている。

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円山応挙《海辺老松図襖》部分(天明7年[1787年]、東京国立博物館蔵、通期)

第4章 は「美術とともに」。明治35年(1902)の明治天皇の神戸行幸に際して川崎正蔵が命じられ、舞子の行在所(有栖川宮舞子別邸、現在その跡地にホテル舞子ビラが建つ)に金屏風5双を御用立て。5双のうち3双の屏風、重要美術品の《桐鳳凰図屏風》伝狩野孝信筆(桃山~江戸時代・16世紀後期~17世紀初期、林原美術館蔵、個人蔵、通期)-、《桐鳳凰図屏風》狩野探幽筆(江戸時代・17世紀、サントリー美術館蔵、通期)と、日本の展覧会では初公開となる 狩野孝信筆の《牧馬図屏風》(桃山~江戸時代・16世紀後期~17世紀初期、個人蔵、通期)が奇跡の“再会”を果たす。また中国明代の七宝焼(景泰藍)の再現ために尾張の七宝工・梶佐太郎を神戸へ招聘して製作させた香炉や花瓶、盃なども並ぶ。

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重要美術品《桐鳳凰図屏風》伝狩野孝信筆(桃山~江戸時代・16世紀後期~17世紀初期、林原美術館蔵)無断転載禁止

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狩野孝信《牧馬図屏風》左隻(桃山~江戸時代・16世紀後期~17世紀初期、個人蔵、通期)

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狩野孝信《牧馬図屏風》右隻(桃山~江戸時代・16世紀後期~17世紀初期、個人蔵、通期)

最後の第5章は「川崎正蔵が蒔いた種―コレクター、コレクション、美術館」。川崎正蔵の3人の息子は早くに亡くなってしまい、後継ぎとして迎えた四男は家業を継ぐことを拒み、廃籍。そこで郷里薩摩の先輩である松方正義の三男の幸次郎33歳を株式会社川崎造船所の社長に迎え、娘婿の川崎芳太郎を養子縁組して副社長に据えた。川崎正蔵没後の昭和2年(1927)の金融恐慌をきっかけに売却され、散逸してしまう。川崎正蔵旧蔵品は、国内外で約200点の現存が確認されているそうだ。

国宝の《宮女図(伝桓野王図》伝銭舜挙筆(元時代・13~14世紀、個人蔵、11/15~12/4展示)は、足利将軍家から伝わる名品。さらに足利将軍家を経て織田信長も所蔵していた 重要文化財の《寒山拾得図》伝顔輝筆(元時代・14世紀、東京国立博物館蔵、~11/13展示)も含まれ、中国・唐代の伝説的な人物、寒山と拾得が不敵な笑みを浮かべる傑作で、正蔵が命についで大切にしていたとされる。

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左)国宝《宮女図(伝桓野王図》伝銭舜挙筆(元時代・13~14世紀、個人蔵、11/15~12/4展示) 中)重要文化財《寒山拾得図》伝顔輝筆(元時代・14世紀、東京国立博物館蔵、~11/13展示) 右)重要文化財《寒山拾得図》伝顔輝筆(元時代・14世紀、東京国立博物館蔵、~11/13展示)

京都国立博物館の特別展「京(みやこ)に生きる文化 茶の湯」

京都ゆかりの「茶の湯」の名品、245件一堂に

茶を喫する文化は平安時代末頃に中国からもたらされ、鎌倉、南北朝、室町と時代が進むなかで徐々に和様化し、連綿と守り継がれてきた。とりわけ京都周辺では茶の栽培が活発化し、唐物賞玩する茶や社寺の門前で参詣者に茶を振舞う一服一銭も生まれ、茶は広く拡がりをみせるようになる。さらに京都は国内外から多くの人が訪れる、国際観光都市として、もてなしの心を大切にする茶の湯が発展し、息づいている。そして茶道の家元や茶家の多くが京都を本拠とするように中心的な役割を果たしてきた。

今回の展覧会では、社寺建築や美術工芸、あるいは能や狂言、舞踊など、長い歴史の中で育まれてきた有形・無形の文化的遺産とともに、独自の文化を生み出した「茶の湯」をテーマに、各時代の名品を通して、京都を中心とした歴史と、茶人たちの美意識の粋を感じていただこうという趣旨だ。桃山時代を代表する名碗など前期(~11/6)と後期展示(11/8~1)合わせ、約245件も出品されている。

展示は序章と7章で構成されており、主な展示作品を各章ごとに画像とともに紹介する。序章は「茶の湯へのいざない」。茶の湯は今日、日本を代表する伝統文化として、海外においても広く人々に認識されている。茶の湯がどのように根付き、時代に合ったものへと変化していったのかを、伝世の名品でたどる。国宝の《大井戸茶碗 銘喜左衛門》(朝鮮時代・16世紀、京都・孤篷庵、通期)は、松平不昧が「天下の三井戸」と称した一碗だ。

第1章「喫茶文化との出会い」では、遣唐使などを通じて中国からもたらされ、平安時代後期には、茶臼で茶葉をすりつぶして粉末にし、それを攪拌させて飲むという、現在の茶の湯につながる「点茶法」が入宋僧や渡来僧によって伝えられる。現在に通じる飲茶が確立していく様子を、記録文書や絵画、そして寺院での喫茶の姿を今に伝える四頭茶礼とともに紹介している。《四頭茶礼道具》(江戸時代・17~19世紀、京都・建仁寺、通期)は、禅宗とともに中国からもたらされた。

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《四頭茶礼道具》(江戸時代・17~19世紀、京都・建仁寺、通期)

第2章は「唐物賞玩と会所の茶」。鎌倉時代以降、喫茶は禅宗寺院において細かく作法が規定され、茶礼として整えられる。一方、武家の会所においては、もてなしの場で茶を楽しむ文化が生まれた。会所とは、茶を喫するだけでなく、連歌や香会などの文芸を行う場であり、日中貿易によってもたらされた文物が「唐物」として飾られ、賞玩された。社寺の門前には、参詣する人々に茶を振る舞う一服一銭なども現れ、庶民の身近にも茶が供給され、楽しむことができるようになった。重要文化財の《遠浦帰帆図》伝牧谿筆(中国南宋時代・13世紀、京都国立博物館増、後期)など展示。

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重要文化財《遠浦帰帆図》伝牧谿筆(中国南宋時代・13世紀、京都国立博物館増、後期)

第3章は「わび茶の誕生と町衆文化」。室町時代、唐物道具を珍重する風潮が強くあるなかで、日々の暮らしのなかにある道具を使用するという、わびの精神に基づく喫茶文化が新たに生み出された。わび茶が生じ、発展する過程では、多くの町衆の経済活動がこれを支え、新たな趣向のもとで茶道具もさまざまに生み出された。《珍皇寺参詣曼荼羅図》(桃山時代・16~17世紀、京都・六道珍皇寺(~12/4展示)などが出品されている。

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《珍皇寺参詣曼荼羅図》(桃山時代・16~17世紀、京都・六道珍皇寺(10/25 ~12/4展示)

続く第4章は「わび茶の発展と天下人」で、信長、秀吉の茶の湯を支えた千利休(1522~91)の登場だ。利休は彼ら天下人の茶を体現する一方で、自らの審美眼によって独自の道具を生み出し、それまでの茶の湯にはみられなかった独創性をもって茶の湯を発展させた。重要文化財の《千利休像(部分)》伝長谷川等伯筆 古渓宗陳賛(桃山時代・天正11年[1583]賛、大阪・正木美術館蔵、後期)はじめ、秀吉愛用とされる重要文化財の《大井戸茶碗 銘筒井筒》(朝鮮時代・16世紀、通期)、国宝の《志野茶碗 銘卯花墻》(桃山時代・16~17世紀、東京・三井記念美術館蔵、通期)など目を引く。

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重要文化財の《千利休像(部分)》伝長谷川等伯筆 古渓宗陳賛(桃山時代・天正11年[1583]賛、大阪・正木美術館蔵、後期)

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重要文化財《大井戸茶碗 銘筒井筒》(朝鮮時代・16世紀、通期)

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国宝《志野茶碗 銘卯花墻》(桃山時代・16~17世紀、東京・三井記念美術館蔵、通期)

第5章は「茶の湯の広まり 大名、公家、僧侶、町人」。利休や秀吉が活躍したのち、武家、公家、僧侶、町人とそれぞれの立場において茶の湯が広がる。利休と親交のあった古田織部(1544~1615)は、織部好みとされる茶道具をつくり出した。その後も、小堀遠州(1579~1647)や、金森宗和(1584~1656)、さらに本阿弥光悦(1558~1637)に代表されるように、町人たちの間でも茶の湯が流行した。重要文化財の《色絵若松図茶壺》(江戸時代・17世紀、文化庁、通期)が出品されている。

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重要文化財《色絵若松図茶壺》(江戸時代・17世紀、文化庁、通期)

第6章は「多様化する喫茶文化 煎茶と製茶」で、江戸時代に入り、黄檗僧の渡来とともに新たな中国文化がもたらされた。煎茶もその一つ。京都・宇治に萬福寺を開いた隠元隆琦(1592~1673)は、中国の明時代に主流となっていた煎茶による茶礼を伝えただけでなく、詩書画を茶とともに楽しむ文人趣味の流行を導き、その後の茶道具の製作にも大きな影響を与えた。《紫泥茶罐 宜興窯》(中国明時代・17世紀、京都・萬福寺、通期)は、隠元禅師が愛用した茶器だ。

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《紫泥茶罐 宜興窯》(中国明時代・17世紀、京都・萬福寺、通期)

最後の第7章は「近代の茶の湯 数奇者の茶と教育」。近代になり、茶家の家元たちを中心に茶の湯を変革していく試みがなされ、政財界にも茶の湯に興味を持つ人々があらわれ、茶の湯を楽しみ、そして、茶道具が収集されるようになる。こうした数寄者とよばれる人々によって、京都においても新たな茶の湯が生み出された。重要文化財の《色絵鱗波文茶碗》野々村仁清作(江戸時代・17世紀、北村美術館蔵、通期)などが出品されている。

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重要文化財《色絵鱗波文茶碗》野々村仁清作(江戸時代・17世紀、北村美術館蔵、通期)

このほか1・2階吹き抜けの広い展示室に、豊臣秀吉の「黄金の茶室」や千利休の「わびの茶室」が再現展示されていて注目だ。

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豊臣秀吉の「黄金の茶室」の再現展示

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千利休の「わびの茶室」の再現展示

奈良国立博物館の「第74回 正倉院展」

華やかな八角鏡や銀壺、初出陳8件を含む計59件

正倉院は、聖武天皇遺愛の品々や東大寺の年中行事用の仏具など約9000件の宝物を納めている。毎年秋に開催の恒例の正倉院展は、第74回を数える。今年も、美しい工芸品から、奈良時代の世相がうかがえる文書まで、初出陳8件を含む計59件(北倉9件、中倉26件、南倉21件、聖語蔵3件)が出陳され、天平文化を象徴する宝物を今に伝える。なお(削除)掲載の作品画像は、すべて宮内庁正倉院事務所管理。なお観覧には「前売日時指定券」の予約・発券が必要。事前予約のみで、当日券の販売はなし。問い合わせは、050-5542-8600。

天平勝宝8歳(756)6月21日、聖武天皇の四十九日に合わせ、后(きさき)の光明皇后が東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ)に献納した品々は、正倉院の中でもとりわけ由緒ある宝物として知られている。今年はその中から、繊細かつ華やかな文様が施された《漆背金銀平脱八角鏡(しっぱいきんぎんへいだつのはっかくきょう)》は、黒漆地に金銀飾りの華やかで優美な鏡だ。また黄熟香(おうじゅくこう)(蘭奢待 らんじゃたい)と並んで名香の誉れ高い香木の《全浅香(ぜんせんこう)》(いずれも北倉)が出陳される。

以下、すべて宮内庁正倉院事務所管理

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《漆背金銀平脱八角鏡》(北倉)

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《全浅香》(北倉)

聖武天皇と光明皇后の娘・称徳天皇にまつわる大型の銀製の壺の《銀壺(ぎんこ)》(南倉)も見逃せない。この品は、天平神護3年(767)2月4日、称徳天皇が東大寺に行幸した際の大仏への献納品と考えられ、その破格の大きさもさることながら、表面に施された騎馬人物や鳥獣の細かな線刻文様が目をひく逸品だ。

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《銀壺》(南倉)

さらに今年は、奈良時代の装いに関連する宝物が多数出陳されるのも特徴。《彩絵水鳥形(さいえのみずどりがた)》(中倉)は、高貴な身分の人が腰帯から下げたり、衣服に縫い付けたりして用いたと考えられ、わずか数センチの大きさでありながら、精密な細工には目を見張る。

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《彩絵水鳥形》(中倉)

奈良時代は仏教が国家鎮護(こっかちんご)の役割を担い、法会(ほうえ)が盛んに営まれていた。《伎楽面 力士》(南倉)は、天平勝宝4年(752)の大仏開眼会で使用されたことが墨書から判明する品で、表面に施された鮮烈な赤が華やかな法会の情景を浮かび上がらせるようだ。

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《伎楽面 力士》(南倉)

また《粉地彩絵几(ふんじさいえのき)》(中倉)の鮮やかな彩色文様や、《金銅幡(こんどうのばん)》(南倉)に見るバラエティーゆたかな透彫文様もまた、法会のきらびやかさを引き立たせたことであろう。このほか、空海(くうかい)が本格的な密教を伝える以前の古式の法具《鉄三鈷(てつのさんこ)》(南倉)は、厳かな法会の様子を伝える。

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《粉地彩絵几》(中倉)

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 《金銅幡》(南倉)

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《鉄三鈷》(南倉)

これら数々の宝物は、伝統を重んじる人々のたゆまぬ努力によって守り伝えられてきた。会場の最後に展示する《錦繡綾絁等雑張 (にしきしゅうあやあしぎぬなどざっちょう)》(北倉)は、江戸時代の天保4年(1833)の開封を機に屛風に仕立て整理された奈良時代の古裂の断片で、正倉院における保存整理のさきがけとして象徴的な意義をもっている。

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《錦繡綾絁等雑張》(北倉)

文化ジャーナリスト。ジャーナリズム研究関西の会会員。平山郁夫美術館企画展コーディネーター・民族藝術学会会員。 1944年8月14日生まれ 愛媛県新居浜市出身。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。 著書に『シルクロード 現代日本人列伝』『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』『無常のわかる年代の、あなたへ』『夢追いびとのための不安と決断』『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ!』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(いずれも東方出版)『アート鑑賞の玉手箱』『アートの舞台裏へ』『アートへの招待状』(いずれも梧桐書院)など多数。