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アートへの招待28 大回顧展、橋本関雪と佐伯祐三が“競演” 

文化ジャーナリスト 白鳥正夫

大正から昭和にかけて、関西出身で同時代に生きた日本を代表する日本画家と洋画家の大回顧展が京都と大阪で“競演”。「橋本関雪 生誕140周年 KANSETSU ―入神の技・非凡の画―」が、京都・東山の白沙村荘 橋本関雪記念館はじめ京都・嵐山の福田美術館および嵯峨嵐山文華館の3館で7月3日(前期:~5月29日、後期5月31日~)まで開催中だ。大阪中之島美術館の開館1周年記念特別展「佐伯祐三―自画像としての風景」が、大阪では15年ぶりに6月25日まで開かれている。いずれもかつてない規模で展開されており、この機会に鑑賞をお勧めしたい。

白沙村荘 橋本関雪記念館・福田美術館・嵯峨嵐山文華館の「橋本関雪 生誕140周年 KANSETSU ―入神の技・非凡の画―」

名画の数々を3会場で展開、庭なども魅力

橋本関雪は神戸に生まれ、幼少から儒者の父・海関の薫陶を受けて漢籍詩文を学び、画筆にも親しんだ。四条派の画法を修めた闊達な筆さばきと、中国の古典への深い理解と愛着を持ち、早熟な才能を示した。近世の伝統を受け継ぎながら近代性を取り入れて、独自の文雅で壮大な芸術世界を完成させる。

橋本関雪(1883-1945)は、竹内栖鳳の竹杖会(ちくじょうかい)に入り、大正2年(1913年)と翌年の文展で二等賞。大正5年と翌年には文展で特選を受賞。帝展審査員を務め、昭和9年(1934年)、帝室技芸員に任命される。昭和11年に平生文相が示した美術院改革案に反対して横山大観らとともに会員を辞任する。その後に帝国美術院が改組して帝国芸術院が発足すると改めて芸術院会員となった。関雪は若くしてその名を東西の画壇に轟かせ、近代日本を代表する画家となっていった。

関雪の号は藤原兼家が雪降る逢坂の関を越える夢を見、その話を聞いた大江匡衡は「関は関白の関の字、雪は白の字。必ず関白に至り給ふべし」と夢占いをし、兼家は関白の宣旨を蒙ったという故事より父である海関が名付けたもの。

中国古典に精通したことでも知られ、たびたび中国へ渡った。京都銀閣寺畔の白沙村荘(はくさそんそう)に住み、白沙村人と別号した。白沙村荘は、京都市左京区浄土寺にあり、関雪が大正5年(1916年)から住んだ邸宅である。関雪が銀閣寺のほど近くに約30年かけて造営し、総敷地面積は1万平方メートルにおよぶ「文人の理想郷」だ。2008年には国の名勝に指定され、現在一般公開されている。関雪はこの白沙村荘で没している。享年61だった。

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石造美術なども散在する広い庭園

白沙村荘は、もと浄土寺の領地であったとされる田園地域を埋め立てて造営が始められ、関雪は東京から戻り、南禅寺金地院に仮住まいをしながら造営の指揮を取っていたという。建物や庭園の設計は関雪自身によるもの。敷地内の建物は大きな主家と、屏風の制作を行っていた存古楼(ぞんころう)と呼ばれる画室を中心に、書斎、居間、客間に加え、庭園の南部分には憩寂庵(けいじゃくあん)、倚翠亭(いすいてい))などの茶室や、如舫亭(にょほうてい)と呼ばれる四阿が建つ。緑豊かな庭には石造美術品が散在する。

関雪は自身の作品やコレクションを展示する美術館建設を計画していたものの、完成を見ないままにこの世を去った。2014年に2階建の美術館が新たに開館し、関雪の作品や蒐集品が展示されている。

関雪は、数十回に及んだ中国・欧州への旅の経験、旺盛な蒐集の意欲などをも自らの力に変えて前進を続け、和漢の故事に材を取った歴史画から、詩書画一致をめざした山水や風景、生彩にあふれた花鳥画、鮮麗な美人画など、他の多くの画家のように一つのジャンルには留まらず、縦横に筆を揮った。

今回の大規模回顧展は関雪が生涯で最も長い時間を過ごした京都の3会場で、その歩みと到達点を多数の名画で振り返るとともに、多角的に紹介する趣旨だ。各会場とも、美術品だけでなく、建物や庭が魅力的で楽しめる。主な展示品と合わせて、会場の画像も取り上げる。

まず白沙村荘 橋本関雪記念館では、前期23点、後期20点に分けて計43点を展覧。前期では足立美術館が所蔵する《樹上孔雀図》(1926年)や《夏夕》(1941年)、《霊鷹》(1942年)、《羅浮僊図》(1919年)など8点を含む名品が展示される。また後期では、東京藝術大学大学美術館の《玄猿》(1933年)ほか、《南国》(1915年、姫路市立美術館)、《香妃戎装》(1944年、衆議院)などが出品される。

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橋本関雪《樹上孔雀図》左隻(1926年、足立美術館、前期)

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橋本関雪《樹上孔雀図》右隻(1926年、足立美術館、前期)

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橋本関雪《夏夕》(1941年、足立美術館、前期)

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橋本関雪《霊鷹》(1942年、足立美術館、前期)

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橋本関雪《羅浮僊図》(1919年、足立美術館、前期)

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橋本関雪《玄猿》(1933年、東京藝術大学大学美術館、後期)

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橋本関雪《南国》(1915年、姫路市立美術館、後期)

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橋本関雪《南国》(1915年、姫路市立美術館、後期)

次に福田美術館は、嵐山の渡月橋近くの京都府京都市右京区に2019年10月オープンした私設美術館。実業家の福田吉孝が近世や近代の京都画壇の作品を約20年にわたって収集し約1800点を所蔵する。自然とのつながりを感じられる「縁側」のような廊下など、伝統的な京町家のエッセンスを踏まえ建築。庭には大堰川に連なる水鏡のごとく嵐山を映し出す水盤が設けられており、カフェからは渡月橋が一望できる。

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渡月橋が一望できる福田美術館のカフェ

主な展示は、82年ぶりに公開される《俊翼》(1941年、福田美術館、同館前期/白沙村荘 橋本関雪記念館、後期)をはじめ、前後期合わせ64点が並ぶ。

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橋本関雪《俊翼》(1941年、福田美術館、福田美術館館前期/白沙村荘 橋本関雪記念館後期)

前期に《後醍醐帝》(1912年、福田美術館)、《睡猿》(1937年、福田美術館)、後期に《梅花放鶴図》(1926年、福田美術館)、《防空壕》(1942年、東京国立近代美術館)、また《木蘭》(1918年、白沙村荘 橋本関雪記念館)、《麗日図》(1934年、個人蔵)、《猟》(1915年、白沙村荘 橋本関雪記念館)など通期展示となっている。

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橋本関雪《後醍醐帝》左隻(1912年、福田美術館、前期)

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橋本関雪《後醍醐帝》右隻(1912年、福田美術館、前期)

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橋本関雪《睡猿》(1937年、福田美術館、前期)

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橋本関雪《梅花放鶴図》(1926年、福田美術館、後期)

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橋本関雪《防空壕》(1942年、東京国立近代美術館、後期)

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橋本関雪《木蘭》左隻(1918年、白沙村荘 橋本関雪記念館、通期)

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橋本関雪《木蘭》右隻(1918年、白沙村荘 橋本関雪記念館、通期)

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橋本関雪《麗日図》(1934年、個人蔵、通期)

さらに嵯峨嵐山文華館は、2006年1月から2017年3月まで営業していた百人一首ミュージアム「百人一首殿堂 時雨殿」を改装し、2018年11月に「嵯峨嵐山文華館」としてリニューアルオープンした。百人一首ゆかりの小倉山を背にし、大堰川を借景として取り込む2階からの眺め格別。百人一首の歴史と日本画の粋を伝えるミュージアム1階の常設展示では100体の歌仙人形(フィギュア)と歌の英訳が並ぶ。120畳の広々とした2階の畳ギャラリーでは、座って自由に鑑賞することも可能。石庭を望む明るいテラスにはカフェスペースが設けられている。

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嵯峨嵐山文華館2階の広々とした畳ギャラリー

こでは、文人画に傾倒した関雪の新南画とよばれる新境地に至るまでの作品を主軸に、白沙村荘 橋本関雪記念館所蔵の屏風作品《閑適》(1918年、通期)や、2幅対の《人物山水十二題》(1912年、後期)など43点が公開される。

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橋本関雪《閑適》左隻(1918年、白沙村荘 橋本関雪記念館、通期)

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橋本関雪《閑適》右隻(1918年、白沙村荘 橋本関雪記念館、通期)

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橋本関雪《人物山水十二題「榴下公子図」》(1912年、白沙村荘 橋本関雪記念館、後期)

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橋本関雪《人物山水十二題「松林翠嵐図」》(1912年、白沙村荘 橋本関雪記念館、後期)

大阪中之島美術館の開館1周年記念特別展「佐伯祐三 ― 自画像としての風景」

30歳で夭折した画家の代表作約140点展示

およそ100年前、「大阪」「東京」「パリ」の3つの街に生き、30歳で夭折した佐伯祐三。本格的に画業に取り組んだのはわずか4年余りという短くも鮮烈な生涯だったが、その比類ない作品は今でも多くの人を魅了し続けている。15年ぶりの回顧展となる今回の展覧会は、佐伯の"本拠地"で開催される、初の大回顧展となる。大阪中之島美術館の佐伯祐三コレクションを中心に、初めての出品作も含め代表作約140点が一堂に集結する。

大阪中之島美術館の構想は、1983年に実業家・山本發次郎の旧蔵品が寄贈されたことからスタートした。そのコレクションの中心を成すのが、佐伯祐三の作品群だ。同館では、山本旧蔵の作品を核に、現在では約60点の佐伯作品を所蔵している。これは最大級の質と量を誇る。

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大阪中之島美術館の外観

佐伯祐三(1898-1928)は、大阪府西成郡中津村(現・大阪市北区中津)の光徳寺に生まれる。東京美術学校西洋画科卒業後の1923年、パリに向けて日本を出港。翌年初夏、里見勝蔵の紹介で訪問したフォーヴィスムの巨匠ヴラマンクに「アカデミック!」と一喝され、作風を模索する。やがてユトリロに触発され、壁の物質感を厚塗りの絵具で表現したパリの下町風景の連作を展開し、1925年のサロン・ドートンヌで入選を果たす。

1926年に一時帰国し、下落合の風景や大阪での滞船の連作を制作するも、日本の風景に飽き足らず、1927年8月にシベリア鉄道経由で再渡仏。パリの街並みを精力的に描き、広告の文字を題材とする繊細で跳ねるような線の表現で、独自の画境に達する。1928年2月に荻須高徳、山口長男らと近郊のヴィリエ=シュル=モラン村へ写生旅行。3月にパリへ戻ってから体調が悪化し、8月パリ郊外の精神病院で亡くなった。

二度の渡仏を経て、都市の風景を題材とする独自の様式を切り拓く。特に、一時帰国を挟んだ後の2回目の滞仏期に到達した、繊細で踊るような線描による一連のパリ風景は、画家の代名詞とされる。佐伯が描いた「大阪」「東京」「パリ」の3つの街に注目し、表現方法や画家の視点、作風の変遷など、その過程をたどる。

展示構成の主な内容と展示品を、画像とともに掲載する。まずは「プロローグ 自画像」から。佐伯は画学生時代を中心に、初期に多くの自画像を描いている。ペンや鉛筆によるスケッチ、東京美術学校卒業制作のほか、1924年の劇的な画風の転換を示す、顔が削り取られた特異な《立てる自画像》(1924年、大阪中之島美術館蔵)が注目される。

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佐伯祐三《立てる自画像》(1924年、大阪中之島美術館)

第1章は「大阪と東京」<柱>と坂の日本―下落合風景と滞船(1926 - 1927年)。2年間のパリ滞在を経て、佐伯は1926年3月に帰国する。それから約1年半の一時帰国時代、集中的に取り組んだ画題が「下落合風景」と「滞船」だった。パリとは異なる風景に向き合う中で、画家は電柱や帆柱など、中空に伸びる線を見出していく。佐伯が日本の風景の何を切り取り、どう描いたかも見どころだ。

《下落合風景》(1926年頃、和歌山県立近代美術館)や、《滞船》(1926年頃、ENEOS株式会社)、《汽船》(1926年頃、大阪中之島美術館)など、「下落合風景」と「滞船」のシリーズを充実した点数で紹介し、独自の視点と表現に迫る。

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佐伯祐三《下落合風景》(1926年頃、和歌山県立近代美術館)

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 佐伯祐三《滞船》(1926年頃、ENEOS株式会社)

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佐伯祐三《汽船》(1926年頃、大阪中之島美術館)

第2章は「パリ」。壁のパリ(1925年)として、1924年のヴラマンクとの衝撃の出会い以降、自らの作風の模索を続けた佐伯は、1925年、パリの下町の店先を題材に、重厚な石壁の質感を厚塗りの絵具で表現する独自の作風に到達する。《コルドヌリ(靴屋)》(1925年、石橋財団アーティゾン美術館)など、この時期の代表作をはじめ、圧倒的な存在感を放つ壁面の数々、その美しく複雑なマチエールが並ぶ。

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佐伯祐三《コルドヌリ(靴屋)》(1925年、石橋財団アーティゾン美術館)

続いて、線のパリ(1927年)。佐伯といえば、画面を跳躍する線描の表現が想起される。一時帰国時代の模索を経て、2回目の渡仏直後の1927年秋から初冬に展開された。落葉樹の枝を描いた繊細な線、連なるリズムとなって画面を埋め尽くすポスターの文字、さらには縦に引き伸ばされた人物や自らのサインまで、線描でパリの街角を描き出す。

佐伯芸術の到達点を、《ガス灯と広告》(1927年、東京国立近代美術館)や、《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》(1927年、大阪中之島美術館)ほか、「カフェ・レストラン」の連作を含む代表作でたどる。

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佐伯祐三《ガス灯と広告》(1927年、東京国立近代美術館)

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佐伯祐三《広告(ヴェルダン)》(1927年、大原美術館)

第3章は「ヴィリエ=シュル=モラン」。1928年2月、佐伯はパリから電車で1時間ほどの小さな村、ヴィリエ=シェル=モランに滞在し、新たな造形を模索した。村の中心である教会堂をはじめ、至るところが題材となり、画面には力強く太い線と構築的な構図が復活する。寒さの厳しい中での制作は佐伯の体力を確実に奪っていき、最後のまとまった制作となった。 この時期の作品である《モランの寺》(1928年、東京国立近代美術館)や、《煉瓦焼》(1928年、大阪中之島美術館)などは、まさに命を削りながら創り上げた珠玉の作品群といえる。

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佐伯祐三《モランの寺》(1928年、東京国立近代美術館)

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佐伯祐三《煉瓦焼》(1928年、大阪中之島美術館)

最後の「エピローグ」には、1928年3月、佐伯が病臥する前に描いた、絶筆に近い作品《郵便配達夫》と《郵便配達夫(半身)》、《ロシアの少女》、《黄色いレストラン》(いずれも1928年、大阪中之島美術館)、さらに《扉》(1928年、田辺市立美術館(脇村義太郎コレクション))など、ほぼすべて展示されている。3月末に喀血した佐伯は、その後筆をとることができず、8月16日に亡くなった。

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佐伯祐三《郵便配達夫》(1928年、大阪中之島美術館)

この特別展について、主催者は、「佐伯の絵画に向き合う時、風景に対峙する画家の眼、筆を走らせる画家の身体を強く想起させられます。そして、描かれた街並の中に、画家の内面や深い精神性を感じ取ります。それゆえ作品はしばしば、画家自身を映したもの―自画像にたとえられます」と、コメントしている。 

文化ジャーナリスト。ジャーナリズム研究関西の会会員。平山郁夫美術館企画展コーディネーター・民族藝術学会会員。 1944年8月14日生まれ 愛媛県新居浜市出身。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。 著書に『シルクロード 現代日本人列伝』『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』『無常のわかる年代の、あなたへ』『夢追いびとのための不安と決断』『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ!』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(いずれも東方出版)『アート鑑賞の玉手箱』『アートの舞台裏へ』『アートへの招待状』(いずれも梧桐書院)など多数。