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アートへの招待39 富岡鉄斎と福田平八郎、節目の2大回顧展

文化ジャーナリスト 白鳥正夫

同時代に生きていた大画家の没後節目の大規模回顧展が京都と大阪で開催中だ。「最後の文人画家」と称えられる富岡鉄斎(1836-1924)の回顧展「没後100年 富岡鉄斎」が京都国立近代美術館で5月26日まで、「凡人」であることを心がけた天才画家・福田平八郎(1892-1974)の回顧展「没後50年 福田平八郎」が大阪中之島美術館で5月6日、それぞれ開かれている。いずれも初期から晩年の代表作が揃って展示されていて、大いに見ごたえがある。

京都国立近代美術館の「没後100年 富岡鉄斎」

代表作200点以上の絵や書、印章コレクションも

今回の展覧会は、1924(大正13)年の大晦日に数え年89歳で亡くなった富岡鉄斎が2024年末で没後100年を迎えることを記念し、その画業と生涯をあらためて回顧するもので、京都では27年ぶりの開催となる。京都展後、富山県水墨美術館(7月12日~9月4日)と、碧南市藤井達吉現代美術館(10月5日~11月24日)へ巡回する。

展覧会には名作として繰り返し取り上げられてきた作品はもちろんのこと、名作として知られながらも目にする機会の少なかった作品や、近年になって再発見され、あるいは新たに見出された作品など代表作200点以上のほか、鉄斎の日常空間を彩った貴重な品々も公開されている。

富岡鉄斎は幕末の1836年、京都の商家に生まれた。近世都市の商人道徳を説いた石門心学を中心に、儒学・陽明学、国学・神道、仏教等の諸学を広く学び、人間の理想を説いた。同時に、南宗画、やまと絵等など多様な流派の絵画も独学し、深い学識に裏付けられた豊かな画業を展開した。

鉄斎は、良い絵を描くためには「万巻の書を読み、万里の路を行く」ことが必要であるという先人の教えを徹底して守ろうとした。何を描くにもまずは対象の研究に努め、北海道から鹿児島まで全国を旅して、各地の勝景を探り、胸中に理想の山水を思い描き、表出した。こうした鉄斎の絵画は、京・大阪の町の人々に広く親しまれただけではなく、画壇の巨匠たちから敬われ、むしろ新世代の青年画家たちからもその表現の自由闊達で大胆な新しさが注目された。

文人画というと、何か難しい世界のように思われがちだが、鉄斎の生きた時代にはむしろ縁起物として都市の商人たちの間で親しまれていたともいわれる。京都御所近くの室町通一条下ルに邸宅を構えていた鉄斎の書斎(画室)を彩っていた文房具や筆録(旅行記や研究用メモ)なども出品されていて、市井に生きた画家の日常にも焦点を当てている。

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富岡鉄斎《富士山図》右隻(1898年 63歳、清荒神清澄寺 鉄斎美術館、第一~二期)

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富岡鉄斎《富士山図》左隻(1898年 63歳、清荒神清澄寺 鉄斎美術館、第一~二期)

最大の見どころは、なんといっても六曲一双の大作《富士山図》(1898年 63歳、清荒神清澄寺 鉄斎美術館)だ。右隻に雄大な富士の山容を、左隻に火口をクローズアップするという異彩を放つ構図とともに、江戸期の文人である池大雅、高芙蓉、韓大年が連れ立って富士山、立山、白山の三霊峰に登った逸話を賛として記している。

鉄斎は、生涯において幾度も富士山を描いており、《富士遠望図・寒霞渓図》(1905年 70歳、京都国立近代美術館)は、十国峠から富士山を望んだ優雅な作品だ。

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富岡鉄斎《富士遠望図・寒霞渓図》右隻(1905年 70歳、京都国立近代美術館、第四期)

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富岡鉄斎《富士遠望図・寒霞渓図》左隻(1905年 70歳、京都国立近代美術館、第四期)

一方、これまで一般に公開されてこなかった《土神建土安神社図・椎根津彦像・平瓫図》三幅対(1879年 44歳、個人蔵)や、50年ぶりの公開となる《渉歴余韻冊》(1875年 40歳、個人蔵)など、従来の鉄斎展では見られなかった作品を鑑賞できる貴重な機会となっている。

さらに生前、書家としても親しまれた鉄斎の書の名作や、彼の画室に置かれていた硯や墨、絵具、絵具皿といった遺愛の品々も紹介する。とくに稀代の印章コレクターとして知られる鉄斎の印章120顆の公開も興味深い。

展示は4部構成。章の概要と主な出品作品を掲載する。展示は第一期(~4月14日)、第二期(4月16日~29日)、第三期(5月1日~12日)、第四期(5月14日~)に、それぞれ展示替えがある。

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富岡鉄斎《空翠湿衣図(明治時代 40歳代、清荒神清澄寺 鉄斎美術館、第一~二期)

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富岡鉄斎《燕間四適図》(明治時代 50歳代、京都国立近代美術館、第三~四期)

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富岡鉄斎《勾白字詩七絶》(明治時代 60歳代、清荒神清澄寺 鉄斎美術館、第一~二期)

序章「鉄斎の芸業 画と書」では、まず鉄斎の画業を初期から晩期の手前までを一気にたどる。初期作品の繊細な美しさと、50歳代の作品の力強さ、60歳代の作品の円熟とともに、書の名作も並ぶ。いずれも古典漢籍の深い造詣に根ざしたものであり、絵と書と学問をともに高めていった鉄斎の姿勢をうかがうことができる。

ここでは、鉄斎が30歳代から80歳代にいたるまでに描かれた山水図、肖像、詩書などが展示されているが、40歳代の《空翠湿衣図(清荒神清澄寺 鉄斎美術館)、50歳代の《燕間四適図》(京都国立近代美術館)、60歳代の《勾白字詩七絶》(いずれも明治時代、清荒神清澄寺 鉄斎美術館)に注目だ。

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富岡鉄斎《高士肥遯図》(1889年 54歳、碧南市藤井達吉現代美術館、第一~二期)

第1章「鉄斎の日常 多癖と交友」では、鉄斎の日常空間を彩った文房具や絵画制作の道具、印章、煎茶道具一式、旧蔵の図書や書画、研究成果としての「筆録」などを 取り上げ、「文人多癖」と呼ばれる関心の広さを通じて彼の交友関係をも検証。この章では、《高士肥遯図》(1889年 54歳、碧南市藤井達吉現代美術館)のほか、池大雅や青木木米の旧蔵品、友人である松浦武四郎の贈物、とりわけ膨大な量の印章コレクションが目を引く。

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富岡鉄斎《菟道製茶図・粟田陶窯図》左図(1869年 34歳、清荒神清澄寺 鉄斎美術館、第三~四期)

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富岡鉄斎《菟道製茶図・粟田陶窯図》右図(1869年 34歳、清荒神清澄寺 鉄斎美術館、第三~四期)

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富岡鉄斎《三津浜漁市図》(1875年 40歳、清荒神清澄寺 鉄斎美術館、第三~四期)

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富岡鉄斎《通天紅葉図》(1882年 47歳、清荒神清澄寺 鉄斎美術館、第一~二期)

第2章の「鉄斎の旅 探勝と探求」は、京都の鴨川や嵐山、山科、琵琶湖といった近隣から全国の名勝まで、旅をめぐるさまざまな側面を、作品と資料により紹介。《菟道製茶図・粟田陶窯図》(1869年 34歳)をはじめ、《三津浜漁市図》(1875年 40歳)、《通天紅葉図》(1882年 47歳)、《嵐山秋楓図》 (1886年 51歳)、《蝦夷人熊祭図》(70歳代、いずれも清荒神清澄寺 鉄斎美術館)など、万里の路を行くということを標榜した鉄斎ならではの多彩な表現に引き込まれる。

終章は「鉄斎の到達点 老熟と清新」。数え年89歳まで生きた鉄斎の画業は60歳代までに一つの円熟期を迎えたのち、70歳代から80歳代にかけてさらに円熟期とされる。自由奔放に描いた晩期の鉄斎作品の充実と新鮮な魅力に驚く。

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富岡鉄斎 重要文化財《阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図》右隻(1914年 79歳、公益財団法人 辰馬考古資料館、第一期)

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重要文化財《阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図》左隻(1914年 79歳、公益財団法人 辰馬考古資料館、第一期)

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富岡鉄斎《鮮魚図》(1910年 75歳、愛媛県美術館、第一~二期)

この章では、目玉作品の《富士山図》や《富士遠望図・寒霞渓図》のほか、重要文化財の《阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図》(1914年 79歳、公益財団法人 辰馬考古資料館)、《妙義山図・瀞八丁図》(1906年 71歳、布施美術館)、《鮮魚図》 (1910年 75歳、愛媛県美術館)、《煙波漁隠図》(1913年 78歳、京都国立近代美術館)、《瀛洲仙境図》三幅対の内(1923年 88歳、碧南市藤井達吉現代美術館)、《福内鬼外図》(1924年 89歳、清荒神清澄寺 鉄斎美術館)など、ずらり晩期の傑作が並ぶ。

担当の京都国立近代美術館の梶岡秀一・学芸課長は、記者内覧会で「鉄斎の絵画は、晩年の山水画が代表的であるといえるが、この展覧会には若い頃の作品や静物などをモチーフとした絵画も数多く展示している。鉄斎の仕事における多彩さを鑑賞し楽しんでほしい」と、強調している。

大阪中之島美術館の「没後50年 福田平八郎」

初期から晩年までの優品約120件、初公開作品も

大阪の美術館では初、関西でも17年ぶりの回顧展となる今回の福田平八郎展は、代表作や、所蔵の大分県立美術館以外では初公開となる《雲》(1950年)など、初期から晩年までの優品約120件を展示し、その魅力に迫っている。

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福田平八郎《雲》(1950年、大分県立美術館)

また「写生狂」を自称した画家の瑞々しい感動やユニークな目線を伝えるスケッチ類も紹介して名作誕生の背景を探る。こちらは大阪展後、大分県立美術館(5月18日~7月15日)へ巡回する。

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福田平八郎 重要文化財《漣》(1932年、大阪中之島美術館)

大分市に生まれた福田平八郎は、18歳のとき京都に出て絵を学ぶ。自然を隅から隅まで観察した写実的な作品で評価を得たのち、重要文化財の《漣》(1932年、大阪中之島美術館)を発表し、その大胆な挑戦で人々を驚倒させた。その後も《竹》(1942年、京都国立近代美術館)や《雨》(1953年、東京国立近代美術館)など、色や形、視点や構成に趣向を凝らした作品を制作し「写実に基づく装飾画」という新しい時代の芸術を確立した。

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福田平八郎《竹》(1942年、京都国立近代美術館)

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福田平八郎《雨》(1953年、東京国立近代美術館)

見どころの一つに、これまで存在を知られていなかった新発見の作品《水》(1935年頃)が、初めて公開されている。《漣》よりも少し後の制作と考えられ、平八郎が追い求めた水の表現の一側面を示す貴重な作例である。

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福田平八郎《水》(1935年頃)

展示は5章で構成されている。その内容と主な展示作品を紹介する。

第1章は「手探りの時代」で、習画期ということもあり、作風に統一感がなく特徴をつかみにくいところがある。平八郎は、18歳のとき画家を志し京都に出て、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校で絵を学んだ。伝統的な日本画や同時代の新しい傾向の作品にも興味を示し、自らの進むべき道を模索していたあとがうかがえる。《緬羊》(1918、大分県立美術館)、《雨後》(1915年、京都市立大学芸術資料館、~4月7日)などが出品されている。

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福田平八郎《緬羊》(左)や《雨後》などの展示

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第1章の展示風景

第2章は「写実の探究」。京都市立絵画専門学校の卒業制作に悩んだ平八郎は、美学の教授・中井宗太郎に相談し、対象と客観的に向きあうことを決意する。こうして大正後半から昭和のはじめにかけての平八郎は、対象を細部まで観察し、徹底した写実表現を試みた作品を発表するようになる。《安石榴(ざくろ)》(1920年)や《朝顔》(1926年、ともに大分県立美術館)、《游鯉》(1921年)などがある。

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福田平八郎《安石榴》(1920年、大分県立美術館)

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福田平八郎《朝顔》(1926年、大分県立美術館)

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福田平八郎《游鯉》(1921年)

第3章は、「鮮やかな転換」で、《漣》や《竹》などの代表作を展示している。平八郎は、昭和のはじめころから形態を単純化し、鮮烈な色彩と大胆な画面構成を特徴とする独自の装飾的表現へと向かう。そして、昭和7年(1932年)の第13回帝展に《漣》を発表し、日本画の新たな表現の可能性を画壇に問いかけた。ここでは《花菖蒲》(1934年、京都国立近代美術館)も目立つ。

第4章は「新たな造形表現への挑戦」。第二次世界大戦後の美術界では、伝統的な日本画への批判が高まったが、平八郎は確固とした信念で日本画の表現の可能性を模索する。こうして、徹底した自然観照によりながら、対象がもつ造形の妙を見事に抽出し、 写実と装飾が高い次元で融合した傑出した作品がいくつも誕生した。見るものに今も新鮮な驚きを与え、自然美への共感を誘う。《雲》や《雨》のほか、《筍》(1947、山種美術館)にも注目だ。

最後の第5章は「自由で豊かな美の世界へ」。平八郎は、昭和36年(1961年)を最後に日展への出品を止め、以後は小規模な展覧会に心のおもむくままに制作した小品を発表。作風は晩年になるにつれ、形態の単純化が進み、線も形も色彩も細部にとらわれない大らかな造形へと展開する。

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福田平八郎《花の習作》(1961年、京都国立近代美術館、~4月7日)

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福田平八郎《游鮎》(1965年、大分県立美術館)

この章では、《花の習作》(1961年、京都国立近代美術館、~4月7日)をはじめ、《鸚哥(いんこ)》(1964年、名都美術館)、《游鮎》(1965年、大分県立美術館)などが出品されている。

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福田平八郎《うす氷》(1949年、大分県立美術館)

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福田平八郎《紙テープ》(昭和30-40年代、大分県立美術館)

章分けとは別に「素描・写生帖」コーナーがある。「写生狂」を自称した平八郎は、いつも写生帖を持ち歩き、対象と真摯に向き合い続けた。平八郎の瑞々しい感動を伝え、名作誕生の過程を示す貴重な写生作品にも興味を引く。《うす氷》(1949年)や、《紙テープ》(昭和30-40年代、ともに大分県立美術館)など豊富な作品が並ぶ。

この展覧会担当した大分県立美術館の吉田浩太郎・主幹学芸員は図録の巻頭に「福田平八郎の画業」と題して、次のような文章で締めくくっている。

晩年の平八郎の作品には、視る者の心を和ませる屈託のない美しさがあるが、そこには、写生でつかんだ視ることの喜びを素直に表現しようとしていた平八郎の思いが感じられる。平八郎がいう「写実を基本にした装飾画」の究極の形がここにある。

文化ジャーナリスト。ジャーナリズム研究関西の会会員。平山郁夫美術館企画展コーディネーター・民族藝術学会会員。 1944年8月14日生まれ 愛媛県新居浜市出身。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。 著書に『シルクロード 現代日本人列伝』『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』『無常のわかる年代の、あなたへ』『夢追いびとのための不安と決断』『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ!』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(いずれも東方出版)『アート鑑賞の玉手箱』『アートの舞台裏へ』『アートへの招待状』(いずれも梧桐書院)など多数。