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アートへの招待4 仏教文化を考える2つの企画展

文化ジャーナリスト 白鳥正夫

世界中の人々がコロナ禍で苦しむ時代、一日も早い終息を祈る日々だ。紀元前にインドで創始した仏教はシルクロードをたどって、6世紀末に遥か東方の日本に伝来し、根付いた。いつの時代も、救いを求める人々の拠り所となってきた仏教文化を考える貴重な展覧会が東京と大阪で開催されている。政変のあったアフガニスタンのバーミヤンからシルクロードを経て日本へと続く“弥勒の道”を辿る、国内初の展覧会「みろく―終わりの彼方 弥勒の世界―」は、東京藝術大学美術館で10月11日まで開かれている。一方、大阪市立美術館では、仏教の真理を追究し、国の文化的な基盤を築き上げた聖徳太子の千四百年御聖忌記念特別展「聖徳太子 日出づる処の天子」を10月24日まで開催中だ。いずれも見て美しいだけではなく、文化遺産の価値を後世に継承する格好の企画展だ。

東京藝術大学美術館の「みろく―終わりの彼方 弥勒の世界―」
 破壊されたバーミヤンの天井壁画など復元

弥勒は、釈迦を継ぐ仏で、釈迦の没後、長い長い「無仏の世」を経た遠い未来、ユートピアと化したこの世に出現して衆生を救済するという。いわば暗く沈んだ世界に救世の光をもたらす未来仏だ。東アジアで広く親しまれ、日本に深く浸透した弥勒は、誕生の地ガンダーラから時空を超え、交易と仏教伝来の道シルクロードを辿ってヒンドゥクシュを抜け、天山を越え、海を渡って日本に至った。その中継地となったバーミヤンの磨崖に、像高55メートルの弥勒の大仏(西大仏)が刻まれ、多くの人々の信仰を集めていた。

玄奘三蔵は7世紀、中国・唐からインドの天竺へ求法の旅の途中、仰ぎ見たことが『大唐西域記』に記載されている。しかし2001年2月、タリバンはイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとして、大仏とともに天井壁画などが破壊した。この経緯については、筆者の別サイトhttps://note.com/mahaktyo/n/n2f5f0e13bd1bの「バーミヤン大仏破壊から20年の今後は」で詳しく記している。

今回の展覧会では、タリバンに破壊された、バーミヤンE窟仏龕及び天井壁画《青の弥勒》をスーパークローン文化財の技術で復元制作し、初公開する。同じくスーパークローンの《敦煌莫高窟 第275窟交脚弥勒菩薩像》や、バーミヤン東大仏天井壁画《天翔ける太陽神》、《法隆寺金堂9号壁》を一堂に展示。このほかガンダーラとアフガニスタンの弥勒菩薩像、日本の弥勒来迎図模写や、弥勒菩薩立像の模刻作品なども出品される。

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スーパークローン文化財 バーミヤンE窟仏龕及び天井壁画《青の弥勒》

同館では、「東京藝術大学アフガニスタン特別企画展」(2016年)、「素心伝心 ?クローン文化財 失われた刻の再生」(2017年)に次ぐ、文部科学省が推し進める「革新的イノベーション創出プログラム」事業の成果発表の場でもある。

なお会期中の9月21日午後1時から4時半に、オンライン国際シンポジウム「危機迫るアフガニスタン文化遺産~「青の弥勒」からのメッセージ~」を開催する。https://live.kit-ai.jp/streaming/miroku0921/indexで、当日視聴できる。

展覧会は4つの章(地域)から構成されている。各章の概要と主な出品作品を画像とともに紹介する。まずは初公開の《青の弥勒》(第2章で展示)から。東大仏に近い崖に穿たれたE窟の坐像本尊の頭上を飾っていた天井壁画で、ラピスラズリをふんだんに使用していて青色が印象的。重要な文化遺産だったが、東西の大仏と同じころ破壊された。原寸大立体で再生するとともに、当時すでに失われていた左手と両脚も復元した。《青の弥勒》の展示イメージも掲載。

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《青の弥勒》の展示イメージ

第1章は初めて仏陀像を制作したとされる「ガンダーラ」。パキスタン北西部に位置する。太陽を表す頭光背をつけた《仏陀坐像》(3-4世紀)、石彫の《弥勒菩薩坐像》(2-3世紀)、《弥勒菩薩交脚像》(3-4世紀、いずれも平山郁夫シルクロード美術館蔵)などが並ぶ。クシャーン朝のカニシュカ1世(2世紀中頃)が発行した金貨(裏に太陽神)と銅貨(裏に「釈迦牟尼仏」立像、「弥勒仏」坐像)も注目だ。

““《仏陀坐像》(3-4世紀、平山郁夫シルクロード美術館蔵)

《仏陀坐像》(3-4世紀、平山郁夫シルクロード美術館蔵)

““《弥勒菩薩坐像》(2-3世紀、平山郁夫シルクロード美術館蔵)

《弥勒菩薩坐像》(2-3世紀、平山郁夫シルクロード美術館蔵)

““《弥勒菩薩交脚像》(3-4世紀、平山郁夫シルクロード美術館蔵)

《弥勒菩薩交脚像》(3-4世紀、平山郁夫シルクロード美術館蔵)

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クシャーン朝のカニシュカ1世が発行したコイン。左から金貨(裏に太陽神)・銅貨(裏に「釈迦牟尼仏」立像、「弥勒仏」坐像)

第2章は「アフガニスタン」。仏教が東アジアへと伝播する途上、大きな役割を果たした、バーミヤンの《青の弥勒》はじめ、破壊された東大仏(釈迦牟尼仏)の頭上に描かれていた《天翔ける太陽神》の原寸大立体で復元したクローン作品(2017年公開)も展示されている。髪に三日月の飾りを着けた《弥勒菩薩立像》(2-3世紀、平山郁夫シルクロード美術館蔵)は、粘土と漆喰で制作されている。弥勒の救済者的性格を示す重要な作品だ。

““スーパークローン文化財

スーパークローン文化財 東大仏(釈迦牟尼仏)の頭上に描かれていた《天翔ける太陽神》

““《弥勒菩薩立像》(2-3世紀、平山郁夫シルクロード美術館蔵)

《弥勒菩薩立像》(2-3世紀、平山郁夫シルクロード美術館蔵)

第3章は「西域(現在の新疆省)と中国」で、シルクロードを旅した弥勒像が砂漠や天山を超え、中国に入った姿を追う。敦煌莫高窟第275窟の《弥勒菩薩交脚像》もスーパークローン技術による復元作品。五胡十六国時代晩期の北涼時代(397-439年)に開削された、敦煌最古とされる窟で、中国におけるもっとも古い仏像の一つ。敦煌研究院の協力を得て高精細データを収集し、本尊を欠損した右手とともに70パーセントのサイズで復元制作した。

““スーパークローン文化財

スーパークローン文化財 敦煌莫高窟第275窟の《弥勒菩薩交脚像》

中国の《弥勒三尊像》(557年、東京藝術大学美術館蔵)は、三世仏(多宝如来・釈迦如来・弥勒菩薩)を表したと考えられる。中心の本尊は弥勒菩薩の半跏思惟像。この章では、《弥勒仏碑像》(750年、東京藝術大学美術館蔵)や、クローン技術による《敦煌莫高窟第57窟》なども出品されている。

““《弥勒三尊像》(557年、東京藝術大学美術館蔵)

《弥勒三尊像》(557年、東京藝術大学美術館蔵)

““《弥勒仏碑像》(750年、東京藝術大学美術館蔵)

《弥勒仏碑像》(750年、東京藝術大学美術館蔵)

第4章は「日本」に伝わった弥勒の姿を展示。《法隆寺金堂壁画9号璧》は1949年1月26日、保護を目的とした模写作業中に不幸にも焼損した原作(7世紀末頃)を東京藝術大学の持つ技術を駆使して完全復元した作品だ。《法相祖師像彩絵 厨子扉絵》(鎌倉時代・13世紀中頃、東京藝術大学美術館蔵)は、黒漆塗り宝形造厨子に取付けられていた扉絵6面。弥勒上生経に説く兜率天(とそつてん)上神々、法相祖師らを描いたもの。かつては本尊として法相宗の始祖である弥勒菩薩の彫像を安置していたと推察されている。

““スーパークローン文化財《法隆寺金堂壁画9号璧》

スーパークローン文化財《法隆寺金堂壁画9号璧》

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《法相祖師像彩絵 厨子扉絵》(鎌倉時代・13世紀中頃、東京藝術大学美術館蔵)

このほか《弥勒来迎図》模写(東京藝術大学美術館蔵)や、《東大寺中性院弥勒菩薩立像》・《室生寺木造弥勒菩薩立像》の模刻作品(いずれも東京藝術大学美術館蔵)もあり、クローン技術の精巧さも見ごたえ。会場には、弥勒に関わる作品約40点と、映像および写真パネル等を展示し、多面的に“弥勒の道”を展開している。

““《弥勒来迎図》模写(東京藝術大学美術館蔵)

《弥勒来迎図》模写(東京藝術大学美術館蔵)

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《東大寺中性院弥勒菩薩立像》模刻(東京藝術大学美術館蔵)

大阪市立美術館の千四百年御聖忌記念特別展「聖徳太子 日出づる処の天子」
 太子の生涯と太子信仰の広がりに迫る

前記の“弥勒の道”は、日本への仏教伝来の道でもあった。日本には神道という独自の宗教があったため仏教の布教は多難だったが、仏教に帰依していた推古天皇が592年に天皇に即位したことをきっかけに、状況は変化し始めた。用明天皇の皇子として生まれた聖徳太子(574~622)は、推古天皇の摂政として仏教を中心とした国造りを行った。冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣によって政治制度を整え、国の文化的な基盤を築き上げた。さらに聖徳太子は、奈良・法隆寺や大阪・四天王寺の創建に貢献し、仏教を篤く信奉し、仏教文化を大きく飛躍させた。

生前から「上宮法皇」と呼ばれた太子に対する尊崇はやがて太子信仰として結晶し、その流れは現在も日本仏教のうちに脈々と息づいている。その聖徳太子が没して1400年の節目、奈良と東京の両国立博物館で「聖徳太子と法隆寺」が開催され、今度は大阪・四天王寺所蔵の寺宝を中心に、飛鳥時代から中世、現代までの文化財やゆかりの作品を通じて、太子の生涯と太子信仰の広がりに迫る。《聖徳太子絵伝》や《聖徳太子立像》など国宝8件、重要文化財41件を含む約180件を展示するが、会期中に展示替え(前期:~9月26日、後期:9月28日~)がある。なお同展は、展示構成を一部替えて、東京港区のサントリー美術館でも開催(11月17日~2022年1月10日祝) される。

このように誰もが知っている聖徳太子だが、その生涯の事跡についてどれほどの人が記憶しているだろうか。また最澄や親鸞をはじめとする日本仏教諸宗の名だたる開祖・祖師は、なぜ聖徳太子を自派の拠りどころとして讃仰したのか。聖徳太子ゆかりの寺院は、なぜ1400年もの長きにわたり参詣が絶えないのだろうか。こうした「聖徳太子とは何か」という問いを解くべく、展覧会が企画された。

展示構成に従って、主な展示品を画像と合わせ取り上げる。第1章は「聖徳太子の生涯 太子の面影を追って」で、太子の業績を描いた複数の絵伝や、太子が所持したと伝わる品々、足跡を物語る作品などを展示。重要文化財の《聖徳太子絵伝第2幅(部分) 》 (遠江法橋筆、鎌倉時代 元亨3年・1323年、四天王寺蔵)は、左上に11歳の時、童子と遊び、言葉の復唱、跳躍、相撲などで抜きん出た才能を見せた場面、左下には13歳で百済からもたらされた弥勒石像を礼拝する様子が描かれている。太子が用いたとされる国宝の《丙子椒林剣》(飛鳥時代 7世紀、四天王寺蔵)は、屈指の古刀。重要文化財の《聖徳太子摂政坐像》(院恵・院道作、鎌倉時代 建治3年・1277年、奈良・達磨寺蔵)は、堂々とした威厳ある姿。数ある摂政像の中でも特に優れたものとして有名な作品だ。

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重要文化財《聖徳太子絵伝第2幅(部分) 》(遠江法橋筆、鎌倉時代 元亨3年・1323年、大阪・四天王寺蔵)画像提供:奈良国立博物館

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国宝《丙子椒林剣》部分と刀身全図(飛鳥時代 7世紀、四天王寺蔵)画像提供:東京国立博物館(Image:TNM Image Archives)

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国宝《丙子椒林剣》部分と刀身全図(飛鳥時代 7世紀、四天王寺蔵)画像提供:東京国立博物館(Image:TNM Image Archives)

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重要文化財《聖徳太子摂政坐像》(院恵・院道作、鎌倉時代 建治3年・1277年、奈良・達磨寺蔵)

 第2章は「聖徳太子信仰の広がり 宗派を超えて崇敬される太子」。太子は日本に仏教を広めた人物として、没後すぐに信仰の対象となった。天台宗の最澄、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍などそれぞれの宗派の開祖からも尊ばれた。こうした太子信仰の中で二歳像や十六歳像など特定の年齢の姿を表した像や絵なども生まれた。多様な太子像の全貌と各宗派の太子信仰の広がりにスポットを当てる。

2歳の聖徳太子は東を向き「南無仏」と唱えたという《聖徳太子二歳像(南無仏太子像)》(鎌倉時代 13~14世紀、京都・白毫寺)をはじめ、重要文化財の《聖徳太子童形立像》(鎌倉時代 弘安9年・1286年、大阪・道明寺蔵)、《聖徳太子童形像・四臣像》(室町時代 15世紀、四天王寺蔵)などが出品されている。

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《聖徳太子二歳像(南無仏太子像)》(鎌倉時代 13~14世紀、京都・白毫寺)画像提供:神奈川県立金沢文庫、撮影:野久保昌良

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重要文化財《聖徳太子童形立像》(鎌倉時代 弘安9年・1286年、大阪・道明寺蔵)

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《聖徳太子童形像・四臣像》(室町時代 15世紀、四天王寺蔵)

第3章は「大阪・四天王寺の1400年 太子が建立した大寺のあゆみ」。四天王寺は推古天皇元年(593年)、太子が建立した日本最古の官寺。太子の遺徳を広める活動を続けてきた。戦火や災害などにより何度か伽藍が失われたが、人々の太子への信仰により再興を果たした。同寺に伝わる国宝を始めとする名品によって、その歴史を伝える。

四天王寺の由来などを記した縁起を後醍醐天皇が写し、自らの手印を押したという国宝の《四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)》(南北朝時代 建武2年・1335年)や、同じく国宝の《扇面法華経冊子》(平安時代 12世紀、ともに四天王寺蔵)などに注目だ。ほかに福徳円満の相といえる丸顔で、柔和な笑みを浮かべ合掌する《勝鬘夫人坐像》 部分(江戸時代 元禄7年・1694年、大阪・愛染堂勝鬘院蔵)は寺外初公開。勝鬘夫人とは聖徳太子が講讃した『勝鬘経』の主人公であり、在家仏教徒でありながら大乗仏教の思想を説いた女性だ。

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国宝《四天王寺縁起(後醍醐天皇宸翰本)》(南北朝時代 建武2年・1335年、四天王寺蔵、後期展示)

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国宝《扇面法華経冊子 巻第6》(平安時代 12世紀、四天王寺蔵)

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《勝鬘夫人坐像》 部分(江戸時代 元禄7年・1694年、大阪・愛染堂勝鬘院蔵)

第4章は「御廟・叡福寺と大阪の聖徳太子信仰 太子が眠る地」。太子の御廟(陵墓)は大阪南部にある。御廟の前に建つ叡福寺(南河内郡太子町)、物部守屋との合戦時に休息をとった地の野中寺(羽曳野市)、守屋との合戦の地に建つ大聖勝軍寺(八尾市)は太子ゆかりの寺として「河内三太子」と称される。

16歳の時に物部守屋との戦いに臨む姿を捉えた《馬上太子像》(桃山時代 16~17世紀、大阪・叡福寺蔵) や、重要文化財の《弥勒菩薩半跏像》(白鳳時代 丙寅年・666年、大阪・野中寺蔵)などが出ている。

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《馬上太子像》(桃山時代 16~17世紀、大阪・叡福寺蔵) 

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重要文化財《弥勒菩薩半跏像》(白鳳時代 丙寅年・666年、大阪・野中寺蔵)

最後の第5章「近代以降の聖徳太子のイメージ…そして未来へ つながる祈り」では、明治以降、国家の基礎を築いた政治家としての側面がクローズアップされた太子の変遷をたどる。

《鳳輦(ほうれん)》(江戸時代 17世紀、四天王寺蔵)は頂に鳳凰を載せた輿。聖霊会の際に、聖霊院に祀られる聖徳太子童形半跏像を六時堂へ移すために用いられる。

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《鳳輦》(江戸時代 17世紀、四天王寺蔵)

《聖徳太子童形半跏像》(令和3年 2021年、四天王寺蔵)は、太子千四百年御聖忌に合わせて制作された。展覧会閉幕後は聖霊院に安置され非公開となる。堂本印象の《旧最高裁判所大法廷壁画小下絵 聖徳太子憲法宣布》(昭和26年・1951年、京都府立堂本印象美術館蔵)や、山岸凉子の《日出処の天子〈完全版〉第7巻P.195》は、太子を題材に描いた人気漫画の原画まで、より身近な存在となった近代以降の太子のイメージを追う。

““《聖徳太子童形半跏像》(令和3年

《聖徳太子童形半跏像》(令和3年 2021年、四天王寺蔵)

““堂本印象《旧最高裁判所大法廷壁画小下絵

堂本印象《旧最高裁判所大法廷壁画小下絵 聖徳太子憲法宣布》(昭和26年・1951年、京都府立堂本印象美術館蔵)

山岸凉子《日出処の天子〈完全版〉第7巻P.195》@山岸涼子/KADOKAWA

山岸凉子《日出処の天子〈完全版〉第7巻P.195》@山岸涼子/KADOKAWA

文化ジャーナリスト。ジャーナリズム研究関西の会会員。平山郁夫美術館企画展コーディネーター・民族藝術学会会員。 1944年8月14日生まれ 愛媛県新居浜市出身。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。 著書に『シルクロード 現代日本人列伝』『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』『無常のわかる年代の、あなたへ』『夢追いびとのための不安と決断』『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ!』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(いずれも東方出版)『アート鑑賞の玉手箱』『アートの舞台裏へ』『アートへの招待状』(いずれも梧桐書院)など多数。