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アート鑑賞の玉手箱6 繰り返された愚行、パルミラ遺跡の破壊

文化ジャーナリスト 白鳥正夫

紀元前後、シルクロード東西交易の隊商都市として栄えたシリアのパルミラ遺跡が2015年8月末にイス ラム国(IS)によって爆破されたことが報じられた。ユネスコの世界文化遺産になった1980年、現地を訪れた故平山郁夫画伯が「シリア砂漠に咲いた大輪の花」と称賛し、大作を仕上げた遺跡だ。前年に「シルクロードの始点と天山回廊経路網」が世界文化遺産に登録された。「シルクロードを国際交流や平和の道に」と提唱した平山さんの遺志は無残にも砕けた。あらためて平和を築くことの難しさを実感する。そうした時期、広島県立美術館で「平和を希求した平山作品 の軌跡」と題して講演の機会を得た筆者は、シルクロードをこよなく愛した平山さんの切なる思いを、作品を紹介しながら伝えた。先にアフガニスタンのバーミヤンの大仏が破壊された愚行に続いての悲劇を書き留めておきたい。

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シルクロードの中継都市として発展
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パルミラ遺跡は首都ダマスカスの北東約230キロにある古代都市遺跡群で、ローマ帝国時代に王国が成立し繁栄を謳歌した。紀元前1世紀頃からシルクロードの中継都市として発展したが、紀元後273年にローマ帝国が再統一を図り、パルミラは陥落し廃墟と化した。しかしベル神殿をはじめ今回爆破されたバールシャミン神殿や円形劇場、列柱回廊などの建物群が遺跡として残った。イランのペルセポリスと並ぶ大規模遺跡で、年間約1500万人もの観光客が訪れていた。

この遺跡を10年余にわたって発掘調査を実施したのが奈良県だ。1988年に開かれた「なら・シルクロード博覧会」にパルミラ出土の文化財が展示されたことをきっかけに、シルクロード学研究センターの研究活動の一環として、1991年から2004年まで毎年調査団を派遣した。古代パルミラ人の人骨多数などを発掘。その陣頭指揮にあたっていた樋口隆康・元奈良県橿原考古学研究所所長も今春他界された。

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平山さんがパルミラ遺跡を初めて訪れたのは、1971年末のことだ。その印象記を『永遠のシルクロード』(2000年、講談社)に次のように綴っている。

危険な砂漠を踏破したキャラバンは、砂漠の彼方よりナツメ椰子の林が茂るパルミラの大オアシスを遠望したのであろう。入り口には大凱旋門が堂々と構えており、そこを入ると、大列柱通りが奥の神殿まで続く。列柱の一本ずつに、将軍の胸像や功労者の像があったという。今は円柱の中ほどに、胸像を置いた石台が所々に残るだけである。列柱通りに面した沿道には、円形劇場もある。パルミラ市民や、遠く砂漠を渡ってきたキャラバンの人たちが、この劇場で楽しんだのかもしれない。

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今年5月パルミラ地域をほぼ制圧したISは、5月下旬に住民約400人を殺害、7月上旬にはアサド政府軍兵士25人を円形劇場で射殺した。さらに遺跡の元管理責任者の考古学者を斬首し、遺跡の柱につるした映像を公開し、ついには神殿の爆破とエスカレートした。このままでは遺跡全体の破壊につながる恐れが現実問題となった。

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パルミラ遺跡の悲劇を伝える『週刊新潮』(9月10日号グラビアより)

平山さんの著書や奈良県のパルミラ調査報告などに目を通していた筆者も2000年初頭にパルミラ行きを計画していた。新聞社の仕事との調整がつかず予定を先延ばしにしていただけに、もう平山さんが目にしていた光景が失われたことは無念でならない。すでに故人となられた平山さんや樋口さんは、この悲劇を耳にしていたら、どれほど憤り、嘆き悲しんだことだろう。

大石仏破壊のバーミヤンは負の遺産

パルミラの悲劇で思い出されるのがアフガニスタンのバーミヤン大仏の爆破だ。バーミヤンはヒマラヤとカラコルムに連なる巨大なヒンドゥークシュの山並みのちょうど真ん中あたり、標高2500メートルの高地にある。3世紀末から8世紀にかけてほぼ500年間、パキスタンの西方に花開いた仏教の都城で、シルクロードの東西を結び、インドへの中継地として栄えた。

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平山さんはこの地には1968年、仏教伝来と玄奘三蔵の求法の道を求めて、インドからアフガニスタン、旧ソ連の中央アジアのカザフスタン、ウズベキスタン、パキスタンを歴訪している。こちらの方も、『永遠のシルクロード』に次のように記している。

数キロにわたる岩山の断崖に、バーミアンの石窟があった。大小の石窟が、無数に口を開けている。その中にひときわ大きい大仏がある。高さ53メートルにもなる大仏だ。7世紀前半に、インドへの旅の途中の玄奘三蔵がバーミアンを訪れ、その時の印象を『大唐西域記』に書いている。玄奘は金色に輝く大仏に感動した。

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玄奘も天竺への旅の途上仰ぎ見たという大仏は5~6世紀には存在していた。実際は高さ55メートルの西大仏と38メートルの東大仏の2体があり、石窟内にはグプタ朝のインド美術やサーサーン朝のペルシア美術の影響を受けた壁画が描かれていた。

平山さんの見た大仏の顔は、すでに偶像否定のイスラム教徒の手によって削り取られていた。さらに2001年3月12日にタリバーンはイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとして2体の大仏を破壊した。この様子が撮影されており、「アッラーフ・アクバル」(「神は偉大なり」の意)を唱えている中を爆破される映像は世界中に配信された。

タリバーンの予告後、平山さんは国際世論に訴え、この蛮行を思いとどまらせようと発言し、政府機関などに働きかけたが、その努力は実らなかった。破壊後、大仏を復元しては、との声も出てきたが、平山さんはカブールで開かれたアフガニスタン復興支援国際会議で「人類の犯した愚行として、広島の原爆ドーム、ポーランドのアウシュビッツ収用所跡のように負の遺産として登録し、ユネスコを中心として現状のままの保存を考えるべきだ」と、強く主張した。2003年、「バーミヤン渓谷の建造物群」は、世界遺産に登録された。

平山さんは破壊前後に現地を訪れており、2001年には在りし日の姿に思いを馳せ「バーミアン大石仏を偲ぶ アフガニスタン」を、2003年には「破壊されたバーミアン大石仏」を描いている。
(筆者注=バーミヤンの表記については、平山さんは「バーミアン」としている)

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人類共通の文化遺産を守る活動継続を

日本文化と仏教の源流を探り続けた平山さんは、東西文化の交流の道・シルクロードへと視点を広げた。トルコのカッパドキアから、アフガニスタン、インド、イラン、シリア、チベット、敦煌、楼蘭などへの旅を繰り返し、中でも仏教東漸のシルクロードは、生涯をかけてのテーマであった。

シルクロード行は約168回を数え、現地に息づいている歴史や文化、人の営みに触れる。そこからさまざまなスケールの大きい作品を着想した。遺跡を単なる風景としてではなく、豊かな文明交流の視点で捉えた。

こうしたシルクロードを描いた数々の作品からは、文明への深い洞察力が感じられる。しかし旅で目にした遺跡の荒廃は見過ごすことができず、文化遺産を風化や紛争から守る「文化財赤十字構想」の提唱にたどりついたのだ。

「文化財赤十字構想」を打ち出した平山さんの着想は、第1回ノーベル平和賞を受賞したスイスの慈善事業家、アンリ・デュナンが創設した「国際赤十字」の精神に依拠している。デュナンは戦場に置き去りにされた傷病者の惨状に、付近の住民を募って、敵・味方の区別なく手当てをして救った。

シルクロードを歩き続けた平山さんは、自然災害だけでなく戦禍や盗掘などの人災によって危機に瀕している文化財に心を痛め、デュナンの精神にわが意を得て「文化財赤十字構想」を打ち立てたのだ。人類の「知」の成果ともいうべき文化遺産は人類共通の宝として守っていこうとの考えだ。

敦煌の継続的な文化財保護のため1988年に文化財保護振興財団を立ち上げた際、発起人代表の平山さんは、その役割について「文化財赤十字」の構想を表明したのだった。

敦煌への取り組みからスタートした文化財保護活動は、アンコール遺跡群の保存・救済に向けられ、アフガニスタン文化遺産復興ならびにバーミヤン大石仏調査・保護活動、中国と北朝鮮にまたがる高句麗壁画古墳群の世界遺産登録への貢献、イラクの文化財支援事業など、シルクロード各地へと広がった。

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平山さんは1998年から亡くなるまで、ユネスコ親善大使を務めた。そのユネスコ憲章の前文の冒頭に「人の心の中に平和のとりでを築かなくてはならない」といった有名なくだりがある。また国連文化遺産年の2002年、西安で開催されたユネスコ・シルクロード国際学術シンポジウムで「シルクロードを世界遺産に、そして平和の道に」との提唱にも、平和への熱い思いがあった。

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平山さんが提唱し実践してきた「文化財赤十字構想」は、消滅の危機に瀕している世界中の優れた文化遺産・文化財を、国際協力によって地球規模で保護し、後世へ伝えようというものだ。日本による国際貢献の一つのあり方として、大きな成果を挙げながら、没後もその精神は受け継がれている。

パルミラの悲劇を受け、筆者は講演の最後に、時の政権が進める安保法案による国の防衛のあり方にも触れ、戦争放棄を謳った平和憲法下の日本について経済や軍事ではなく「文化」の役割を強調した。

「文化を守ることは民族の誇りを守り、人々の心を守ることにつながる」が信念の平山さんは、画業と文化財保護活動を通じて、人びとの心に平和の大切さを呼びかけてきた。人類共通の文化遺産を守る活動による「文化防衛国家」としての方向性に、平山さんの遺志と、「次世代へのメッセージ」が込められているように思う。

文化ジャーナリスト。ジャーナリズム研究関西の会会員。平山郁夫美術館企画展コーディネーター・民族藝術学会会員。 1944年8月14日生まれ 愛媛県新居浜市出身。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。 著書に『シルクロード 現代日本人列伝』『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』『無常のわかる年代の、あなたへ』『夢追いびとのための不安と決断』『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ!』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(いずれも東方出版)『アート鑑賞の玉手箱』『アートの舞台裏へ』『アートへの招待状』(いずれも梧桐書院)など多数。