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国献男子ほんわか日記6 戦争は悲惨‐カウラ日本人墓地に眠る諸霊に回向して

国際協力実践家 小島康誉

日本と中国のギクシャク関係は先の大戦が大きく影響しています。その悲劇はオーストラリアでもありました。先月、ようやく「カウラ日本人墓地」に眠 る諸霊に回向させて頂くことが出来ました。カウラ(Cowra)はシドニー西約220km、メルボルン北東約580kmに所在する「日豪親善の宿る」1万人ほどの街です。

昭和19(1944)年8月5日、オーストラリア真冬の月明かりの午前1時50分、突撃ラッパが鳴り響き、カウラ第12戦争捕虜収容所に収容されていた日本兵1,104名の内、千人近くが脱走、330人余は3重の鉄条網も乗り越え脱走。パン切りナイフ・料理包丁・薪・野球バット・園芸用熊手・鋸など「ささやかな武器」しか持たず、機銃掃射で鎮圧されました。231人が死亡。オーストラリア兵4人も亡くなりました。負傷者は108名。

「カウラ捕虜収容所日本兵脱走事件」です。収容人員の増加にともない将校下士官を除く兵士を別の収容所へ移送すると通告された日本人捕虜は受け入れるか、反対して脱走するかを投票。トイレットペーパーに○×で記入、約80%が脱走賛成だったそうです。背景に日本軍の戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」があったと言われています。捕虜となったことを知られないように偽名の方も多かったそうです。

オーストラリア側は「国を代表して全力で戦った名誉ある捕虜」として野球・相撲・麻雀なども許していたと記録されています。同じ収容所のイタリア人は陽気なものだったとも記されています。

事件は終戦後もしばらく伏せられました。日本人墓地は1964年に本格的に整備され、現在は日本の「領土」となっているそうです。1973年には皇太子・皇太子妃時代の天皇皇后両陛下が供花され、1995年には秋篠宮夫妻が供花されています。

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脱走兵ふくめ戦争中にオーストラリアで亡くなった日本人550余霊が眠る墓地(撮影:筆者)

あらましは知っていましたが、畏友岡本貞雄教授から頂いた『学生が聞いたカウラ捕虜収容所日本兵脱走事件』(広島経済大学岡本ゼミナール編・ノンブル社2014)を拝読してから、是非とも参拝したいと思い続けていました。親友Campbell & Fujiko夫妻の案内でようやく実現できました。バンコク経由深夜メルボルン着、翌朝5時ホテル出発、シドニー経由オレンジ空港へ飛びさらに車で墓地着は11時でした。

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この方は本名か偽名か?(撮影:筆者)

「自決的脱走」を主導した人たち、賛成票を投じ脱走した人たち、反対票を投じながら脱走した人たち、賛成票を投じながら留まった人たち、脱走するも3重の鉄条網を乗り越えられず射殺された人たち、乗り越えるも射殺あるいは捕縛された人たち、飲まず食わず民家にたどり着き紅茶とスコーンをふるまわれた人たち、列車に身を投じて自決した人たち、地元民に射殺された人たち、収容所内で自決した人たち、祖国に帰還した人たち、巻き込まれ亡くなったオーストラリア兵・・・万感の想いを込めて誦経しました。涙があふれ出ました。

「人のこの世は長くして変わらぬ春と思いしに 無常の風はへだてなくはかなき夢となりにけり あつき涙の真心を御霊のまえに捧げつつ ありしあの日の思い出に面影しのぶも悲しけれ されど仏のみ光に摂取されゆく身であれば 思いわずらうこともなく永久かけて安らかん なむあみだぶつあみだぶつ なむあみだぶつあみだぶつ」と光明摂取和讃も唱えさせて頂きました。戦争をさけるためにも国際貢献継続を改めて誓いました。

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花と香を手向け誦経する筆者とオーストラリア人夫妻(撮影:小島聡子)

上記本より帰還者の証言の一部を引用させて頂きます。浅田四郎氏「捕虜になって生きて帰ったら、日本人として生きていけないという時代ですから、私は生きて帰っても良いが、家族のみんなが卑怯者、非国民の一家だとこっぴどく言われて生活できないです。・・・だからカウラで暴動を起こしたのです」。

後光秋氏「カウラ事件で亡くなった人たちは、未だに誰が誰だったのかよく分かっていません。半分ぐらいは偽名を使っているから。・・・みなさん、せっかく親にお金を出してもらってるんだから、しっかり勉強してください」。

帰還者の証言を聴いた学生道川和樹君の感想「戦時中は命を賭して祖国のために働き、戦後はその命をもう一度日本の復興のために使われた。その綿々と続く命の連続の先端に我々はいる。そのことを忘れてはならない」。

「豪州カウラ会」の浅田慶子事務局長は同書前書で2004年の慰霊祭について記しておられます。「小雨の降りしきる中で行われた式典は、重々しく厳粛な雰囲気の中で、鎮魂のラッパが空に響き渡り、はるか異国の地で尊い命を失われた日本人兵士と、事件に巻き込まれ亡くなったオーストラリア兵士のご冥福を祈る、参加した者には耐えがたいほど、心打たれるものでありました。・・・残された家族として伝え続けなくてはならないと思っています」。

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捕虜収容所跡と再建された監視塔(撮影:筆者)

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日本人墓地に隣接するオーストラリア兵士と外国人捕虜の墓地(撮影:小島聡子)

日本はオーストラリアで地上戦は交えませんでしたが、度々空爆しました。カウラ捕虜収容所の日本兵は南太平洋などで捕虜となりこの地へ移送されてきた人たちです。

カウラは悲惨な事件を乗り越えて、日豪両国の和解と友好を象徴する街となりました。当時の日本軍人の「降伏よりも死を」を理解できない現地には大きなショックを与えたようですが徐々に関係改善がすすみ、両国政府や多くの方々の尽力で墓地の整備とともに日本庭園や桜並木も作られました。毎年8月5日には慰霊式が行われています。日本庭園でランチしましたが、多くの現地人が訪れていました。

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日本庭園に翻る両国の国旗(撮影:筆者)

なお、新潟の直江津にあった捕虜収容所ではオーストラリア人捕虜約300名のうち60名が病気などで死亡しています。戦後、収容所の警備員8名が捕虜虐待を理由にBC級戦犯とされ横浜軍事法廷で死刑判決を受けて処刑されたそうです。

戦争は悲惨ですね。しかし人類は戦争を繰り返しています。戦争を抑止し平和を維持するためにも国際協力の実践が重要と信じています。微力ながら国際貢献を続けます。

蝉が鳴き続けていた暑いこの日のことを私は決して忘れません。1,000本を超える桜が満開になる9月には桜祭りが開かれるとか、多くの方にお参りいただき戦争の悲惨さと平和の尊さを実感いただければと思います。

上田秀明駐オーストラリア大使(当時)も「2006年は日豪交流年であり、両国で多くの交流プログラムが行われています。中でも私たちは青少年交流に力をいれています。両国の若い世代が戦争の歴史をしっかりと学んだ上で、両国の関係を一層発展させていくことが重要であります」と記しておられる(下記『鉄条網に掛かる毛布-カウラ捕虜収容所脱走事件とその後』前書より)。今年は日中国交正常化45周年、同じことが言えますね。

 

注:脱走人数などは資料により差があり、本稿では収容所跡説明パネル・カウラビジターセンター資料・『Blankets on the wire‐The Cowra breakout and its aftermath』(鉄条網に掛かる毛布-カウラ捕虜収容所脱走事件とその後・Steven Bullard著・オーストラリア戦争記念館2006)などを参考にした。「鉄条網に掛かる毛布」は兵士らが就寝用毛布や外套を3重の鉄条網に掛け乗り越えようとしたことに由来している。写真も残されている。

まず一歩

ほんわかほんわか駄弁っているだけの日記?を検索いただきありがとうございます。掲載頂いているADC文化通信さんにも感謝いたします。

書類を整理していたら、昔むかし友人へ出していた「駱駝だより」が出てきました。シルクロードでの国際貢献に金を使いすぎ、三重県の妻の実家に居候させてもらっていた頃のものです。超節約生活をしていました。ほんわかほんわか。

落ち葉を拾ってきて楽しんでいました。これならお金はかかりません。安田暎胤師(現薬師寺長老)から頂いた皿に活けました。皿の下は順惠夫人から頂いたウイグル模様の布です。知恩院での加行のことも思い出していますね。色紙の山は寓居からの御在所山と鎌ケ岳です。

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2001年11月と12月の「駱駝だより」

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小僧落書き、背景は浅野弥衛※の作品(撮影:筆者)

「すべてのすべてを受け入れて、どう燃えるか」と綴っています。どう燃えるか?どう生きるかって?と問われても、人それぞれ。正解はないと思います。歩んでいくだけ。まず一歩! ほんわかほんわか。

※浅野弥衛:1914年三重鈴鹿市生まれ。1996年没。引っかき線による独自作風で評価を得た。生誕100年には名古屋市美術館などで回顧展が開催された。愛知県美術館などにコレクションされている。

1942年名古屋生まれ。佛教大学卒。浄土宗僧侶、国際協力実践家。66年「宝石の鶴亀」(後にツルカメコーポレーション・あずみと社名変更、現エステールHD)を起業。93年株式上場。96年創業30周年を機に退任。中国新疆へは82年以来、150回以上訪問しキジル千仏洞修復保存、ニヤ遺跡やダンダンウイリク遺跡を日中共同で学術調査するなど文化財保護研究・人材育成など国際協力を多数実践。佛教大学客員教授を歴任し現在は佛教大学内ニヤ遺跡学術研究機構代表、新疆ウイグル自治区政府顧問。編著『日中共同ニヤ遺跡学術調査報告書』『日中共同ダンダンウイリク遺跡学術調査報告書』『念仏の道ヨチヨチと』『新疆世界文化遺産図鑑』『中国新疆36年国際協力実録』『Kizil, Niya, and Dandanoilik』『21世紀は共生・国際協力の世紀 一帯一路実践談』「スタイン第四次新疆探検とその顛末」など。日本「外務大臣表彰」・中国「文化交流貢献賞」「人民友好使者」ほか受賞。