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国献男子ほんわか日記69 悲惨な戦争をふせぐ国際協力

国際協力実践家 小島康誉

終戦の夏が巡ってきました。終戦の約4ヵ月前、連合国側から航海安全を保証されていた「緑十字船」阿波丸(11,249トン)が米潜水艦に撃沈され、2000人余の乗客乗員が死亡した悲劇をご存知でしょうか。私も聞いたことはありましたが、すっかり忘れていました。

それが突然、目に飛び込んできました。先月、ドバイから東京へ戻るエミレーツ航空の席前モニターの飛行マップに「Awa Maru; 1945 ⦿」と現れました。帰国後に勉強しました。

松井覺進氏『阿波丸はなぜ沈んだか 昭和20年春、台湾海峡の悲劇』(朝日新聞社1994)・中国国務院新聞弁公室編『ともに築こう 平和と繁栄‐中国・日本 両国人民の友好の絵巻物』(中国画報出版社2005)やWeb「阿波丸事件」「阿波丸救恤品輸送」、「日本郵船歴史博物館」などに感謝。中でも松井氏の 『阿波丸はなぜ…』は日米両国関係者への取材や公文書を通じて、核心に迫る好著。さすが記者と感じ入りました。表紙を転載させていただきました。

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エミレーツ航空・席前モニター画面より(撮影:筆者)

戦争末期、各国で収容されていた連合国側の捕虜は物資不足に苦しみ、米国は国際赤十字を通じて、日本に物資輸送を要請し、日本は同意した。1943年9月、米西海岸ポートランドからソ連船でウラジオストックへ2500トンが輸送され、ソ連側がナホトカへ。

日本船「白山丸」は1944年11月、当時「日ソ中立条約」を結んでいたソ連(現ロシア)ナホトカから物資の内2025トンを積み、羅津港(現北朝 鮮)で旧満州の捕虜収容所向け150トンを降ろし、神戸港へ到着。800トンは日本での収容所用に残され、275トンは「星丸」が上海・青島の収容所用に 輸送。差引800トンを阿波丸が輸送することに。

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松井氏『阿波丸はなぜ…』表紙より転載 阿波丸は米海軍機撮影

救恤(きゅうじゅつ:救援とほぼ同義)品輸送船を示す「緑十字」が描かれた「阿波丸」は1945年1月30日、救恤品800トンを積み神戸出港。宇 品・門司をへて高雄・香港・サイゴン・シンガポール・ジャカルタなどに立ち寄り救恤品を降ろし、3月24日シンガポール再入港。無事に日本へ帰れる船だ と、殺到した乗船希望者を満載して28日出港し帰国の途へ。台湾海峡を照明つけて航行中の4月1日23時30分頃(現地時間)、米潜水艦 Queenfishの魚雷4発を受け3分後に沈没。潜水艦に救助された1名を除いて、乗客乗員2000名余(2004~2277名と諸説あり)死亡。錫 3357トン・生ゴム2800トン・重油2495トンなど9815トンも海に消えた。

連合国側から航海安全を保証されていた「緑十字船」が攻撃された経緯は謎が多く、阿波丸が軍事物資を積載していたとして米軍司令部が攻撃を黙認、あるいは駆逐艦と誤認したなど諸説ある。米潜水艦の艦長はグアム島での軍法会議で有罪判決(戒告処分)を受けた。

日本は撃沈された直後から「戦時国際法」違反と抗議し、米政府も責任を認めた。賠償交渉は戦後に本格化し、賠償請求6150万ドルに米政府も応じる 方針であったが、GHQ司令官マッカーサー元帥が反対し、最終的に日本への有償食料援助18億ドルを4.9億ドルへ減額することで決着した。

以上が各種Webや松井氏『阿波丸はなぜ…』終章で「限りなく故意に近い過失」と結論づけられた悲劇の概要です。なお1979年12月放映のNHK 「撃沈!緑十字船 阿波丸」はアーカイブスに入っているようですが、私のPCでは見られませんでした。唯一の生存者が仮名で登場する『生存者の沈黙 悲劇の緑十字船 阿波丸の遭難』(有馬頼義1966・文庫版2017)は小説で、その帯に「米軍は唯一人の生存者に何を課したのか-占領政策下、解明されなかった戦時下の ミステリー」と。

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中国による引揚げ・船首部分・遺骨が橋本厚生大臣へ(『ともに築こう 平和と繁栄…』より)

1949年4月国会で「阿波丸事件に基づく日本国の請求権の放棄に関する決議」がなされました。その出だしに「わが国は、連合国の同情ある理解によ り、今や戦争の荒廃から脱却して平和と自由及び民主主義の高遠な原則の具現を目指す新しい生活に乗り出している。米国は、主たる占領国として占領政策の設 定と実施に当って主導的な役割を果して来ており、わが国民としては、米国政府及び米国民がわが国の恢復及び復興のために与えた多大な援助に対し深甚なる感 謝の念を抱くものである」とあり、連合国軍占領下の日本の苦渋がうかがえますね。

1950年に「阿波丸事件の見舞金に関する法律」が成立し、犠牲者1人あたり7万円の見舞金が遺族に、阿波丸の船主である日本郵船に1784万円が 支給されました。阿波丸の引揚げは中国が1977年から80年に数回行い、遺骨・遺品や船体の一部を回収し、遺骨と遺品は日本側へ引き渡されました。

その積荷の多さから「1000億円、いや1兆円だ」と語られた「阿波丸金銀財宝伝説」。日本・米国などの人たちが引揚げを画策した「金40トン・プラチナ12トン・大量の工業用ダイヤは中国の引揚げでも発見されなかった」と『ともに築こう 平和と繁栄…』に。

遺骨は東京の増上寺と奈良の璉珹寺に納められています。浄土宗大本山増上寺に出向き、無念の最後を遂げられた方々に花を手向け、お参りしてきました。強烈な西日でした。殉難者碑の背面には事件概要が、左右には亡くなられた方々のお名前が刻まれていました。

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阿波丸殉難者に回向する筆者(増上寺にて撮影:小島聡子)

このような戦争の悲劇は、ほかにも山とあります。世界中にあります。このWeb「6回」と「37回」でも紹介しました。1944年8月沖縄から本土に疎開する子供などを乗せた学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没し、1476人が犠牲になったのもそのひとつです。

第二次世界大戦は終わりましたが、今にいたるまで各地で大小様々の戦いが続いています。悲惨な戦争をふせぐひとつの方法は国際協力とされ、世界各地 で展開されています。私も一市民ながら永年にわたり実践してきました。微力ながら今後も続けます。ご指導ご支援をお願いします。

それにしても、なぜ阿波丸事件がエミレーツ航空の飛行マップに表示されるのでしょうか。これも謎ですね。エミレーツ航空に「顔が利く」方、教えて下さいませ。

なおモニター画面の阿波丸沈没位置を示す⦿はズレているようです。正確にはもっと大陸よりで、「全日本海員組合」Web「戦没した船と海員の資料 館」には中国福建省福州市烏邱嶼沖約43㎞の北緯24度41分・東経119度12分地点と紹介されています。『阿波丸はなぜ…』には米海軍省の機密扱い詳 報として北緯25度25分・東経120度07分地点とあり、資料によって若干の差があります。

オマケの話:阿波丸殉難者の碑で回向している間、蚊が猛攻撃。手・足・頭カユイ痒い。終えると外国の婦人がカメラを出し「碑を背景に写真を撮って」 と。何の碑かは分からなくても、僧侶が誦経しているので、興味を持ったよう。片言英語で聞けば、カナダ・トロントからと。二度ほど行ったと話すと喜んでい ました。阿波丸事件もはるか昔のこと、お参りする方も少ないようで、供花はドライフラワー状態でした。
 オマケの話:阿波丸殉難者の遺骨・遺品の引揚げが紹介されている『ともに築こう 平和と繁栄…』は昭和天皇・皇后さまと鄧小平夫妻との会見や天皇・皇后時代の上皇・上皇后さまの北京訪問など戦後の日中間の政治・経済・文化の各種交流が 写真入りで紹介されています。不肖私メも「ニヤ遺跡にロマンを求める小島康誉氏」と、4頁掲載されています。ありがたいことです。

力を抜いて

マッターホルン山麓ハイキング、リッフェルベルグ(2582m)近くまで下ってくると、目と耳に飛び込んできたのは次々とゴールする人と迎える人々の歓声と拍手。ほとんど登りばかりの山岳マラソンコース。スゴイですね。

箱根駅伝のようにゴールして倒れこむ人はいません。楽しんで走っているようです。必死の形相でなく、力みすぎず楽しんでいるようです。

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小僧楽書:背景はマラソン大会ゴール周辺(撮影:筆者)

貴族院議長や学習院院長を務めた近衛篤麿公(故人)が贔屓の横綱に「力抜山」と書いた色紙を贈った。力持ちの横綱を「力が山を抜く」と讃えたつもり が、横綱は「力抜け山」と理解し不満顔であった、と聞いたことがあります。読み方ひとつで難しいですね。この故事から横綱の常陸山や栃錦などが扇面に「力 抜山」と書きタニマチ(贔屓筋)へ渡したそうです。

それはさておき、力みすぎはケガのもと。力を入れることも必要でしょうが、「フッ」と力を抜いてみるのも良いかも…。ゴールに笑って走りこむ人たちを見ていて、「小僧も力を抜いて行こう」と思いました。ほんわかほんわか。HONWAKA HONWAKA

1942年名古屋生まれ。佛教大学卒。浄土宗僧侶、国際協力実践家。66年「宝石の鶴亀」(後にツルカメコーポレーション・あずみと社名変更、現エステールHD)を起業。93年株式上場。96年創業30周年を機に退任。中国新疆へは82年以来、150回以上訪問しキジル千仏洞修復保存、ニヤ遺跡やダンダンウイリク遺跡を日中共同で学術調査するなど文化財保護研究・人材育成など国際協力を多数実践。佛教大学客員教授を歴任し現在は佛教大学内ニヤ遺跡学術研究機構代表、新疆ウイグル自治区政府顧問。編著『日中共同ニヤ遺跡学術調査報告書』『日中共同ダンダンウイリク遺跡学術調査報告書』『念仏の道ヨチヨチと』『新疆世界文化遺産図鑑』『中国新疆36年国際協力実録』『Kizil, Niya, and Dandanoilik』『21世紀は共生・国際協力の世紀 一帯一路実践談』「スタイン第四次新疆探検とその顛末」など。日本「外務大臣表彰」・中国「文化交流貢献賞」「人民友好使者」ほか受賞。