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アートへの招待53 ゴッホ展、家族が受け継いできたコレクションに焦点
文化ジャーナリスト 白鳥正夫37歳で自ら命を絶った短い生涯で、画家としてはわずか10年ながら2000点もの作品を遺したゴッホは、19世紀を代表する巨匠となった。何度見ても見飽きないゴッホの名画にまたまた出会えた。大阪市立美術館で特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」が8月31日まで開催中だ。さらに神戸市立博物館では阪神淡路大震災30年「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」が9月20日から2026年2月1日まで開かれる。「不遇の天才」「狂気の人生」「孤高の画家」などと伝説的に語られてきたゴッホの人と作品を、あらためて鑑賞する好機だ。

「ゴッホ大阪展」のチラシ
大阪市立美術館での特別展「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」
ゴッホ作品30点や手紙4通が日本初公開
近年、関西では2020年に兵庫県立美術館で「ゴッホ展」を見ている他、2017年に京都国立近代美術館で「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」を、2013年には京都市美術館で「ゴッホ展 空白のパリを追う」を、さらに2011年にも名古屋市美術館で没後120年記念展「こうして私はゴッホになった」を鑑賞している。

「ゴッホ展」の開会式
ほぼ3年に一度の企画展のほか、各国の美術館展所蔵の名品展でも出品されていて、かなりの頻度でゴッホ作品を目にしている。今回は、家族が受け継いできたコレクションに焦点を当てている。大阪会場の後、東京都美術館(9月12日~12月21日)、愛知県美術館(2026年1月3日~3月23日)に巡回する。

多数参加の記者発表会

挨拶するウィレム・ファン・ゴッホ氏(ゴッホの弟・テオのひ孫)

音声ガイドナビゲーターの松下洸平さん
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた。画商グーピル商会に勤めていたこともあり、一時は聖職者を志したが、いずれも挫折し、画家を目指すことを決意する。以降はオランダのエッテンやハーグ、ニューネン、ベルギーのアントウェルペンと移り、4歳下の弟テオドルスの援助を受けながら画作を続けた。
1886年、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。88年2月から南仏のアルルへ移住し、黄色い家をアトリエに、《ひまわり》や《夜のカフェテラス》などの名作を次々に生み出した。
芸術家たちの共同体を作ろうとポール・ゴーガンを迎えての共同生活を試みたものの、次第に行き詰まり、「耳切り事件」を契機にたった2ヵ月で破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した。
89年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも《星月夜》など多くの風景画、人物画を描き続けた。90年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが、7月に銃で自らを撃ち、2日後に死亡した。
ファン・ゴッホの画業を支え大部分の作品を保管していた弟テオは、兄の死の半年後に生涯を閉じ、テオの妻ヨーが膨大なコレクションを管理することとなる。ヨーは、義兄の名声を高めることに人生を捧げ、作品を展覧会に貸し出し、販売し、膨大な手紙を整理して出版した。その息子フィンセント・ウィレムは、コレクションを散逸させないため、フィンセント・ファン・ゴッホ財団をつくり、美術館の設立に尽力する。

ファン・ゴッホ美術館 外観 2015年撮影
アムステルダムのファン・ゴッホ美術館には、画家フィンセント・ファン・ゴッホの約200点の油彩や500点にのぼる素描をはじめ、手紙や関連作品、浮世絵版画などが所蔵されている。そのほとんどは1973年の開館時、フィンセント・ファン・ゴッホ財団が永久貸与したものだ。今回の展覧会では、ファン・ゴッホ美術館の作品を中心にファン・ゴッホの作品30点以上に加え、日本初公開となるファン・ゴッホの手紙4通なども展示し、家族が守り受け継いできたコレクションが出品されている。
見どころの第一は、ファン・ゴッホ家のコレクションに焦点を当てた日本初の展覧会である。ファン・ゴッホ家が受け継いできた所蔵品は、世界最大のファン・ゴッホ・コレクションとなっている。
第二に、30点以上のファン・ゴッホ作品で初期から晩年までの画業をたどることが出来る。第三に、ファン・ゴッホが集めた作品や、初来日となるファン・ゴッホの手紙4通も公開されている。

「イマーシブ・コーナー」で大型画面五に映し出されたファン・ゴッホ

3Dスキャンを行ってCGにした《ひまわり》(SOMPO美術館蔵)の映像も
さらに特筆すべき点は、会場内に幅14メートルを超える大規模空間で体感する 「イマーシブ・コーナー」が設けられている。ここでは、巨大モニターで《花咲くアーモンドの木の枝》など、ファン・ゴッホ美術館の代表作を高精細画像で投影するほか、3Dスキャンを行ってCGにした《ひまわり》(SOMPO美術館蔵)の映像が「イマーシブ(没入)」として体験できる。
家族がコレクションを守り、美術館を開館
展示は5章で構成されている。プレスリリースを参考に、各章の内容と主な展示作品を取り上げる。作品で特記のないものは、いずれもファン・ゴッホ美術館、アムステルダム(フィンセント・ファン・ゴッホ財団)の所蔵。
第1章は「ファン・ゴッホ家のコレクションからファン・ゴッホ美術館へ」。ファン・ゴッホ家のコレクションの歴史は、フィンセント・ファン・ゴッホの死後、その作品の大半を弟テオが受け継いだところから始まる。コレクションを継承し、フィンセントの作品を世界へ広めることに貢献した3人の家族をご紹介している。
まずテオドルス・ファン・ゴッホ (愛称テオ、1857-1891)は、画家になると決意した兄を経済的・精神的に支え続けた。1873年、15歳で伯父の紹介により美術商グーピル商会のブリュッセル支店で働き始め、ハーグ、ロンドン勤務を経て、1879年にパリへ移る。印象派をはじめとする前衛的な美術にも高い関心をもち、兄の芸術観にも影響を与えた。彼のアパルトマンはフィンセントの作品で溢れかえっていたという。
フィンセントの死後、回顧展の開催に奔走するもしだいに体調が悪化し、兄の死から半年後に死去。テオの遺産には、数多くのファン・ゴッホ作品に加え、兄弟で収集したほかの画家の作品や浮世絵、フィンセントからの多数の手紙が含まれていた。
次にヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(愛称ヨー、1862-1925)は、フィンセントの義妹。オランダの中流家庭に生まれる。オランダで英語教師や翻訳家として働いた後、兄の友人だったテオのプロポーズを受けて1889年4月に結婚。パリで新婚生活を送りながら、美術への造詣を深めた。1891年1月のテオの死により帰国。テオの財産の半分を相続する。
この時、1歳に満たなかった息子が21歳になる1911年まで、彼の相続分も管理していた。展覧会への貸出に加え、定期的に作品を売却したが、親子の生計のためだけでなく、フィンセントの評価の確立を目的としたものでもあった。
テオへ宛てられた膨大な手紙を整理し1914年に出版。死去する前年の1924年には、ロンドンのナショナル・ギャラリーへ《ひまわり》を売却したことで、フィンセントの名声を確固たるものとした。
そしてフィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ(愛称エンジニア、1890-1978)は、テオとヨーの息子でフィンセントの甥。フィンセントは彼の誕生を祝って《花咲くアーモンドの木の枝》を描いて贈った。フィンセントの作品に囲まれて育ち、エンジニアの職に就いた。ファン・ゴッホ家のコレクションに深く関わるようになるのは1945年以降のことである。ヨーの死後数年経つと作品販売を止め、一家のコレクションが散逸せず保持されるよう尽力した。
1960年にフィンセント・ファン・ゴッホ財団を設立し、1962年にコレクションの大部分の所有権を財団に移譲した。財団は、美術館に膨大なコレクションを永久貸与することを約束し、アムステルダム市から土地の提供を受け、オランダ政府が美術館を建設。1973年に国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館(現ファン・ゴッホ美術館)を開館させた。
わずか10年という短い画業で2000点を制作
第2章は「フィンセントとテオ、ファン・ゴッホ兄弟のコレクション」。兄弟のコレクションは、二人が生きた時代の雰囲気を伝えてくれるとともに、フィンセントの芸術を理解する大きな手がかりとなる。フィンセントとテオはともに十代半ばから画廊で働き始めていて、手頃な価格のグラフィック・アートは若いころから身近なものだった。彼らは版画(オリジナル、複製含む)を買い、ときに贈り合う。画家になる決意をしたフィンセントは、特にフランスやイギリスの雑誌に掲載された挿絵から大きな影響を受けた。

「ゴッホ展」の展示室
パリでは同時代の美術も収集する。フィンセントが自らの作品と交換で手に入れた作品は、このとき彼が画家仲間から得ていた評価を示すものでもある。浮世絵を熱心に購入したのは主にフィンセントで、芸術的な刺激を受けるだけでなく、すでに値が上がっていた印象派の主要画家の作品を、これらと交換で何とか手に入れようと意図したものでもあった。

ジョン・ピーター・ラッセル《フィンセント・ファン・ゴッホの肖像》(1886年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団]) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
ここでは、ジョン・ピーター・ラッセルの《フィンセント・ファン・ゴッホの肖像》(1886年)のほか、エルネスト・クォスト の《タチアオイの咲く庭》(1886-90年)、ポール・ゴーガン 《雪のパリ》(1894年)、三代歌川豊国(歌川国貞)の 《花源氏夜の俤》(1861年・文久元年)などが出品されている。

エルネスト・クォスト《タチアオイの咲く庭》(1886年-90年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団]) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

ポール・ゴーガン《雪のパリ》(1894年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

三代歌川豊国(歌川国貞)《花源氏夜の俤》(1861年・文久元年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団]) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
第3章はいよいよ「フィンセント・ファン・ゴッホの絵画と素描」だ。フィンセント・ファン・ゴッホが画家になる決意をしたのは比較的遅く、1880年、27歳のときだった。最初の3年間は主にハーグで素描の腕を磨き、その後ニューネンで油彩画に取り組む。1886年にパリに出ると、自らの表現が時代遅れであることに気づき、新しい筆づかいと色彩表現を取り入れ、独自の様式を生み出していく。

フィンセント・ファン・ゴッホ 《画家としての自画像》1887年12月-1888年2月、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
1888年2月に南仏に移り、アルルで1年3ヵ月、サン=レミ=ド=プロヴァンスで1年を過ごし、自らの表現様式を確立した。1890年5月にパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズへ移る。新しい芸術の可能性を模索し続けていたが、自らの胸部をピストルで撃ち、7月29日に37歳で息を引き取った。わずか10年という短い画業で2000点もの作品を制作した。

フィンセント・ファン・ゴッホ《女性の顔》(1885年4月、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団]) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

フィンセント・ファン・ゴッホ《グラジオラスとエゾギクを生けた花瓶》(1886年8-9月、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

フィンセント・ファン・ゴッホ《浜辺の漁船、サント=マリー=ド=ラ=メールにて》(1888年6月、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
この章では、フィンセント・ファン・ゴッホ の《画家としての自画像》(1887年12月-1888年2月)をはじめ、《グラジオラスとエゾギクを生けた花瓶》(1886年8-9月)、《女性の顔》(1885年4月)、《浜辺の漁船、サント=マリー=ド=ラ=メールにて》(1888年6月)、《種まく人》(1888年11月)、《羊毛を刈る人(ミレーによる)》(1889年9月)、《オリーブ園》(1889年11月)、《麦の穂》(1890年6月)、《膝をつく人体模型》(1886年6月)などが、ずらり並ぶ。

フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》(1888年11月、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団]) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

フィンセント・ファン・ゴッホ 《羊毛を刈る人(ミレーによる)》(1889年9月、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団]) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

フィンセント・ファン・ゴッホ《オリーブ園》(1889年11月、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団]) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

フィンセント・ファン・ゴッホ《麦の穂》(1890年6月、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団]) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)

フィンセント・ファン・ゴッホ《膝をつく人体模型》(1886年6月、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団]) Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
第4章は「ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルが売却した絵画」へ。ヨーはテオと結婚する前には特に美術に縁があったわけではなかったが、パリでテオと暮らしながら、しだいにファン・ゴッホをはじめとする近現代美術に関する知識を身につけた。テオから膨大な作品を受け継いだ後には、個人収集家や美術館の世界、美術取引の仕組みについても精通してゆく。
ヨーが定期的に作品を売却したのは、親子が生計を立てるためでもあったが、ファン・ゴッホ家が受け継いできた200点を超える絵画、500点以上の素描・版画は、現在ファン・ゴッホ美術館に保管され、世界最大のファン・ゴッホ・コレクションとなっている。評価を確立するという大きな目的のためでもあった。こうしたヨーの尽力を明らかにするのが、テオとヨーの会計簿だ。テオの死後には作品の売却についても記されるようになり、ヨーがどの作品をいつ誰にいくらで売却したのか、生々しい記録が残されている。会計簿の調査・研究は進み、記載されたもののうち、170点以上の絵画と44点の紙作品が特定されている。
『テオ・ファン・ゴッホとヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルの会計簿』(1889-1925年)のほか、フィンセント・ファン・ゴッホ の《ボートの浮かぶセーヌ川》(1887年5月中旬-6月下旬、個人蔵)や、《モンマルトルの菜園》(1887年、アムステルダム市立美術館)が展示されている。

フィンセント・ファン・ゴッホ 《ボートの浮かぶセーヌ川》(1887年5月中旬-6月下旬、個人蔵)

フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの菜園》(1887年、アムステルダム市立美術館)Collection Stedelijk Museum Amsterdam, gift of the Association for the Formation of a Public Collection of Contemporary Art in Amsterdam (VVHK), 1949
最後の第5章は「コレクションの充実 作品収集」。1973年、ファン・ゴッホ美術館は主にフィンセント・ファン・ゴッホ財団のコレクションを展示する美術館として開館した。ファン・ゴッホ作品と家族に受け継がれてきたほかの画家たちの作品を中心としながら、今日までにそのコレクションは少しずつ拡充された。
1980年代後半から1990年代前半にかけては、寄付や寄贈の恩恵を大いに受け、ときにはファン・ゴッホ作品が加わることもあった。この時期に潤沢とはいえない予算を使って購入されたのは、ファン・ゴッホと関連のあるバルビゾン派やハーグ派、象徴主義の作品だ。また、1990年代の終わり頃からは版画やポスターなどの紙作品の収集にも力を入れた。このコレクションはいまや世界屈指の質を誇るものとなる。さらに収益が美術館にも分配される宝くじができると、これまで購入が難しかった作品が購入できるようになり、印象派やポスト印象派の作品をはじめ重要な作品が加わった。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「傘を持つ老人の後ろ姿が描かれたアントン・ファン・ラッパルト宛ての手紙」(1882年9月23日頃、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation) (purchased with support from the Mondriaan Fund, the Ministry of Education, Culture and Science, the VSBfonds and the Cultuurfonds)

ピエール・ボナール《傘を持つ女性》(1895年)、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])
フィンセント・ファン・ゴッホ の「傘を持つ老人の後ろ姿が描かれたアントン・ファン・ラッパルト宛ての手紙」(1882年9月23日頃)や、ピエール・ボナールの《傘を持つ女性》(1895年)、ポール・シニャックの《フェリシテ号の浮桟橋、アニエール(作品143)》(1886年)、テオフィル・アレクサンドル・スタンランの「シャ・ノワール巡業公演のためのポスター」(1896年)なども出品されていて興味を引いた。

ポール・シニャックの《フェリシテ号の浮桟橋、アニエール(作品143)》(1886年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])

テオフィル・アレクサンドル・スタンランの「シャ・ノワール巡業公演のためのポスター」(1896年、ファン・ゴッホ美術館、アムステルダム[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])Van Gogh Museum, Amsterdam (Vincent van Gogh Foundation)
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「わだばゴッホになる」。あの鬼才・棟方志功をして、憧れさせたゴッホは、生前は作品が売れず、弟のテオの援助で活動を続けた。いわば無名の画家の作品は後世、《ひまわり》1点に58億円もの値がつけられる。画家に、その作品に物語がある。それが美術の面白さであり、魅力であろう。
ゴッホは、ほとんど無名のままこの世を去った。生きた時代に評価されなかった作品を、ただ一人弟テオが支援し、遺族によって、作品の多くが書簡も含め管理された先見性に驚きと敬意を禁じえない。そうした数奇な生涯の画家ゆえ、新たな視点の展覧会を堪能できた。