VOICE
アートへの招待64 生誕地・和歌山で45年ぶり、「下村観山展」
文化ジャーナリスト 白鳥正夫狩野派、やまと絵、琳派、そして西洋絵画。絵画の領域を自在に横断しながら、近代日本画の地平を切り拓いた画家・下村観山の回顧展「下村観山展」が、和歌山県立近代美術館で7月20日まで開かれている。東京国立近代美術館に続いての開催で、生誕地の和歌山では45年ぶりという。東西の伝統的な絵画表現を徹底的に学び、自由自在に筆を操った観山。代表作で重要文化財《弱法師》をはじめ、英国留学時の作品が里帰りするなど150件超の傑作が集結している。近代日本画の古典と言われる表現で知られる天才画家の質量ともに、充実した展示内容となっている。さらに最新研究から“観山芸術の核心”に迫っていて、「知られざる観山」を鑑賞する絶好の機会だ。
「下村観山展」会場の県立近代美術館
重要文化財の《弱法師》など150件超の傑作が集結
下村観山(しもむら・かんざん/1873‒1930)は、江戸時代を通じて紀伊徳川家に仕えた能楽師の家に生まれる。8歳で上京し、狩野芳崖や橋本雅邦に師事し、さらに第一期生として入学した東京美術学校(現・東京藝術大学)では、校長の岡倉天心の指導を受け、画家の道を進む。卒業後、母校で教鞭を執るが、天心の辞職に従って同校を去り、天心による日本美術院の創立に、横山大観、菱田春草らと参画する。
下村観山 画像提供;神奈川県立歴史博物館
古画の模写・模造事業への参加、また2年にわたるイギリス留学などによって幅広い視野を培い、帰国後は、やまと絵、琳派などの伝統技法を消化しつつ、そこに西洋絵画由来の表現を融合させた革新的な日本画を次々と発表し、新時代を切り拓く画家の旗手となった。
今回の展覧会は2部構成で、「生涯」と「芸術」、「時代・社会」の3つの視点から、その画業を紐解く。第1部では代表作を一堂に展示し、その生涯と芸術をたどる。続く第2部では、日本、中国の古画研究や自身のルーツである能を主題とした制作、さらに渋沢栄一など政財界人との交流といった社会的な側面にも光を当て、観山の全貌に迫っている。
プレスリリースを参考に、展示構成に沿って、各章ごとの内容と、主な作品を画像とともに取り上げる。会期中、一部作品の展示替えがある。
第1 部は「画業をたどる―生涯と芸術」で、日本美術院展覧会出品作を中心とした名品の数々により、その画業の全体像を紹介している。
まず第1 章は、「若き日の観山 1873‒1902 誕生・上京~修業時代~日本美術院への参加」。現在の和歌山市小松原通五丁目に生まれ、ぶらくり丁でも暮らした観山。上京し、大きな時代の転換のなかで苦学して絵を学び、新しい絵画の創造を担う画家として頭角を現していく。その若き日の活動を追う。
《熊野観花》(1894年 明治27年、東京藝術大学、~6月28日)は21歳の初期作品で、東京美術学校の卒業制作。謡曲「熊野」を題材に、平安時代末期、時の権力者であった平宗盛とその愛妾である熊野が主な登場人物で、画面中央、華麗な車から降りてくるのが熊野、その右側、右手に持った扇で熊野を指し、なにか命令しているような人物が宗盛である。
下村観山《熊野観花》(1894年 明治27年、東京藝術大学、~6月28日)
展覧会のチラシの中面に使われている《闍維(じゃい)》(1898年 明治31年、横浜美術館、通期)は、釈迦を荼毘に付す場面が描かれている。闇維とは、荼毘と同様の意味で、遺体を火葬し弔うことを意味する。
下村観山《闍維》(1898年 明治31年、横浜美術館、通期)
第2章は、「西洋を識(し)る 1903‒1905 イギリス留学」。観山は日本画家初の文部省留学生として、1903年(明治36年)に渡英した。イギリスでは、日本画と近しい画材である水彩画が盛んだったためだ。本章では、ロンドンにおける研究の様子と、親交を結んだ作家アーサー・モリソン旧蔵の作品を大英博物館から里帰りし出品されている。
《ディオゲネス》(1903‒05年 明治36‒38年、大英博物館、通期)は、油彩画的質感のものを水彩画の技法によって再現するという試みの成果とされる。観山がロンドンを去る間際かそれ以降にモリソンに贈られたと推定できる。これ以外の作品はいずれも日本東洋的な画題であり、収集家としてのモリソンの好みを意識したものと考えられる。また、ラファエロの模写《小椅子の聖母》(1904年 明治37年、横浜美術館、通期)などもある。
下村観山《ディオゲネス》(1903‒05年 明治36‒38年、大英博物館、通期)
©2026 The Trustees of the British Museum
下村観山《小椅子の聖母》(1904年 明治37年、横浜美術館、通期)
第3章は、「飛躍の時代 1906‒1913 帰国~日本美術院再興前夜」。帰国後の観山は、岡倉天心による日本美術院の移転に従い、横山大観らとともに茨城県の五浦(いづら)に移り住む。留学を経て、古画の技法に西洋絵画の表現を融合させながら、観山は日本美術の地平を拓く新たな表現の創出に挑む。
《木の間の秋》(1907 年 明治40年、東京国立近代美術館、通期)は、下草のススキ、キキョウ、オニユリ、木のツタ、右隻端から左へ蔓を伸ばすヤマブドウは細部まで描かれている。金泥という伝統的な画材を用いながらも写生的な表現が特徴だ。
下村観山《木の間の秋》(1907 年 明治40年、東京国立近代美術館、通期)
この章では、《小倉山》(1909年 明治42年、横浜美術館、通期)は、画面のほとんどが金で構成された大迫力の作品。木々と草の組み合わせ、そこに人物を配し、物語性を持たせている点は新たな試みである。さらに、《美人と舎利》(1909 年 明治42年 豊田市美術館、6月23日~7月20日)など傑作が並ぶ。
下村観山《小倉山》左隻(1909年 明治42年、横浜美術館、通期)
下村観山《小倉山》右隻(1909年 明治42年、横浜美術館、通期)
下村観山《美人と舎利》(1909 年 明治42年 豊田市美術館、6月23日~7月20日)
第4章は「画壇の牽引者として 1914‒1931 日本美術院再興~死没」。で、天心の没後、観山は横山大観とともに活動休止状態に陥っていた日本美術院を再興する。この章では、和歌山会場限定で出品される作品も交えて、高みを目指した画家の円熟の境地と、さらなる挑戦に迫っている。
重要文化財の《弱法師》(1915年 大正4年、東京国立博物館、~6月28日)は、謡曲からとられた題材であるだけに格調高い逸品だ。河内国・高安の里(現在の大阪府八尾市)に住む高安通俊は、人の讒言を信じて我が子・俊徳丸を追い出してしった。さまよい盲目の乞食となった俊徳丸は、春の日に天王寺(大阪・四天王寺)にたどり着いた。通俊もまた、子を追い出したことを悔い、17日間の施行のため同寺を訪れており、二人は再会する。その後父は名乗り、二人で高安の家に帰るという筋書きだ。
重要文化財 下村観山《弱法師》(1915年 大正4年、東京国立博物館、~6月28日)
Image: TNM Image Archives
ほかに和歌山会場限定の《白狐》(1914年 大正3年、東京国立博物館、~6月23日‒7月5日)や、《春雨》(1916年 大正5年、東京国立博物館、7月7日~20日)、《魚藍観音》1928年 昭和3年、西中山 妙福寺、通期)、《竹の子》(1930年 昭和5年)、個人蔵、通期)などが出品される。
下村観山《白狐》(1914年 大正3年、東京国立博物館、6月23日~7月5日)
Image: TNM Image Archives
下村観山《春雨》(1916年 大正5年、東京国立博物館、7月7日~20日)
Image: TNM Image Archives
下村観山《魚藍観音》(1928年 昭和3年、西中山 妙福寺、通期)
下村観山《竹の子》(1930年 昭和5年、個人蔵、通期)
「下村観山展」の展示風景
制作意図や時代や社会との影響関係を紐解く
第2部は「制作を紐解く―時代と社会」で、観山を取り巻く人や時代との関係から、観山の制作と社会との影響関係を検証している。
第1章は、「何をどう描いたか―不易流行」。観山作品の土台には日本や中国の伝統的な絵画がある。古画の形式や画題によりながらも、そこには新たな解釈が加えられている。観山の試みた表現から、その制作意図を読み解く。
《獅子図屛風》(1918年 大正7年、水野美術館~6月28日)や、《毘沙門天 弁財天》(1911年 明治44年、徳島県立近代美術館、~6月28日)などが鑑賞できる
下村観山《獅子図屛風》(1918年 大正7年、水野美術館、~6月28日)
下村観山《毘沙門天 弁財天》(1911年 明治44年 徳島県立近代美術館、~6月28日)
第2章は、「なぜこれを描いたか―日本近代と文化的アイデンティティ」。江戸時代を通じて武家が支えた能楽師の家に生まれた観山は、幕藩体制の崩壊によって、苦しい少年時代を過ごす。到来した明治という新時代にふさわしい国家的アイデンティティの確立において、絵画は重要な役割を果たすことになり、観山自身のルーツにも絡んだ、能というモチーフのイメージ化も、画家としての課題となった。
《蒙古襲来図》(1895年 明治28年、東京大学駒場博物館、通期)は、鎌倉時代に二度あったモンゴル軍の日本襲来、いわゆる元寇を主題としている観山は、《蒙古襲来絵詞》などの古画を参考にしながら、群像による戦闘シーンを組み立て、そこに空気遠近法を用いた空間表現を融合させることで、大画面に臨場感をもたらしている。
下村観山《蒙古襲来図》(1895年 明治28年、東京大学駒場博物館、通期)
また、《蒙古調伏曼荼羅授与之図》(1899年 明治32年、元寇資料館、6月30~7月20日)は、第7回日本絵画協会・第2回日本美術院連合絵画共進会に出品され、最高賞の銀牌第1席に選ばれた作品。タイトル通り元寇に関わる画題で、 鎌倉時代の憎日蓮が、蒙古調伏を祈り、自らしたためた旗曼荼羅を派兵される若い武将に授与する場面である。
下村観山《蒙古調伏曼荼羅授与之図》(1899年 明治32年、元寇資料館、6月30~7月20日)
このほか、《大原之露》(1900年 明治33年、茨城県近代美術館、~6月28日)、《菊慈童》(1909年頃 明治42年頃、宮城県美術館、6月30日~7月20日)、などが展示される。
下村観山《大原之露》(1900年 明治33年、茨城県近代美術館、~6月28日)
下村観山《菊慈童》(1909年頃 明治42年頃、宮城県美術館、6月30日~7月2日)
最後の第3章は、「作品の生きる場所、作品がつなぐもの 」。観山は、寺社や皇族、旧大名家、また財界人などから多くの重要な注文制作を受けた。特に渋沢栄一らによる支援組織「観山会」では、観山作品を通じた交流が、実業家や政治家の心持ちまでを磨く役割を果たす。また観山の場合、注文絵画のあり方が、注文の事情や意図を深く汲んだものであったことも注目される。
ここでは、《楓》(1925年 大正14年、南湖神社、~6月28日)や《天台登山図》(1920年 大正9年、延暦寺、~6月28日)などが出品されている。会場の随所に観山ゆかりの「画稿貼込帳」やスケッチブック、画集、絵筆など資料も豊富に展示されている。
下村観山《楓》(1925年 大正14年、南湖神社、~6月28日)
下村観山《天台登山図》(1920年 大正9年、延暦寺、通期)
画稿貼込帳など資料も展示
この企画展の担当学芸員である宮本久宣さんは、図録「観山さん、おかえり――生誕地、和歌山から紐解く画家への軌跡」と題したテキストで次のように締めくくっている。
観山が1901(明治34)年に和歌山を訪れた際に語った、「以降はセメテ美術を以て生国に尽くしたい」という言葉には、断ち切ることのできない生まれ故郷への愛着と責任感が滲んでいると信じたい。一方で、生誕地にある美術館に、回顧展で誇りを持って紹介できるコレクションがないなど、この土地が偉大な先人を顕彰するための責任を十分には果たしてきたとも言えない。自らの力不足については恥じ入るばかりであるが、本展がいくらかでもその状況を改善するきっかけになるよう、改めて45年ぶりにその人と作品とを「故郷」に迎えることを喜びたい。
観山先生、このたびはよく和歌山にお帰りくださいました。
