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国献男子ほんわか日記195 英国・米国と中国 約100年前ニヤ遺跡めぐる衝突

国際協力実践家 小島康誉

天皇皇后両陛下が6月28日、英国オックスフォード大学を訪問された。両陛下が青春時代に留学された思い出の地。日本国内での繁多な日々をしばし忘れ、楽しまれたことだろう。筆者もオックスフォード大学を訪れたことがある。同大学ボドリアン図書館でマーク・オーレル・スタイン卿(1862-1943)の日記などを研究した。「五星出東方利中国」錦発掘で知られる「日中共同ニヤ遺跡学術調査」では、ニヤ遺跡を4回発掘し大量の文物を持ち出したスタインの報告書も参考になった。

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スタインの第一次~三次新疆探検報告書

それらを読み、スタインに興味をもち、ボドリアン図書館や大英博物館で日記などを研究した。また新疆ウイグル自治区档案館と共同出版した『斯坦因第四次新疆探検档案史料』(新疆美術撮影出版社2007)なども参考にした。研究成果は 「スタイン第四次新疆探検とその顛末」(佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要・第10号・2014)で公開しているが、約11万字と長文(写真・図版65点)、超々圧縮して英国・米国と中国の新疆ニヤ遺跡をめぐるせめぎ合いを紹介したい。

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「スタイン第四次新疆探検とその顛末」と『斯坦因第四次新疆探検档案史料』

スタインとは:ハンガリー生まれのユダヤ人でのちにイギリスに帰化した探険家で考古学者のスタインは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、沸騰したシルクロード探検の象徴的人物。強い意思と研究力・交渉力、さらには栄華を誇った大英帝国をバックに、現在の新疆ウイグル自治区のニヤ遺跡を主舞台として、ダンダンウイリク遺跡・楼蘭・敦煌莫高窟はじめ、ガンダーラ地方・イラン・パキスタンなどで遺跡を調査・発掘し、卓越した研究成果をもたらした。一方で大量の文化財を持ち出した。そのため欧米や日本で高く評価されている反面、中国では「盗掘者」の代表のような位置づけがなされている。

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スタイン発掘後のニヤ遺跡N1(『スタイン報告書』より)

3回の探検で「栄光」を獲得:スタインは英領インド帝国政府の資金援助をえて、1900~01年に第一次新疆探検を敢行。ダンダンウイリク遺跡で「桑種西漸伝説」板絵などを収集後、ニヤ遺跡を大々的発掘。大量の発掘品を大英博物館へ納め、彼のロンドン到着は凱旋将軍の帰国のようであった。第二次新疆(を含む中央アジア)探検は1906~08年、ニヤ遺跡を再び大規模発掘、エンデレ・楼蘭など発掘後に敦煌莫高窟に至り「管理人」王圓籙道士への巧みな交渉で大量の仏典などを「買い付け」持出した。これらを大英帝国にもたらしたことにより、スタインは英雄となり、10年には「C.I.E.」、12年には「K.C.I.E」(インド帝国ナイト爵位)をえた。第三次新疆(を含む中央アジア)探検は1913~16年、三度ニヤ遺跡を大規模発掘後に敦煌莫高窟で王道士よりさらに仏典などを入手。新疆へもどりアスターナ古墳を発掘し、キジル千仏洞を踏査した。スタインが荷造りに1ヵ月要した収集文物について中国側史料に「190箱で17,000斤(8.5トン)は16台の車で運び出された」とある。

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スタインが王道士より買い付けた敦煌文書の一部(『スタイン報告書』より)

第四次新疆探検(1930~31)には米国が登場:歴史が浅く、古代文化財に強い憧れを抱いていた米国は、英・独・露・仏・日などによるシルクロード探検に後れをとっていた。1929年11月、米ハーバード大学はスタインを講演名目で招き、シルクロード探検を持ち掛けた。中国の外国探検家への拒否反応は増大していたが、スタインは3回の探検で手中にした「輝かしい栄光」による「絶対的自信」が冷静な判断力を失わせた。67歳という老化による頭脳の衰えもある。さらにはスタインが「縄張り」としてきた新疆でスウェーデンのヘディンを一方の隊長とする「中瑞西北科学考察団」が1927年から調査していたことも判断を誤らせた。ハーバード大学との度々の交渉を経て、資金提供と持出し文物配分などが決まった。

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ハーバード大学提供10万ドル明細表と中瑞西北科学考察協議書(拙論「スタイン・・・」より)

日本各地で大歓迎:ハーバード大学と協議を終えたスタインは1930年3月29日、バンクーバーを出港、4月10日横浜に上陸した。東京・鎌倉・京都・奈良で、日仏会館・増上寺・大倉集古館・東京大学・鎌倉大仏・知恩院・京都国立博物館・比叡山・伏見桃山陵・法隆寺・東大寺・奈良国立博物館・薬師寺・唐招提寺・春日神社などを訪れ、帝国学士院の晩餐会・京都大学の歓迎晩餐会などに出席、駐日英国大使・大山柏陸軍少佐・羽田亨博士らと交流し、20日神戸から出港した。

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スタイン日記、京都・奈良での活動(拙論「スタイン・・・」より)

武器輸出を条件に旅行ビザ取得:スタインは長崎経由で上海に上陸。英国駐中国公使ランプソン卿および米国公使の外交交渉により5月7日に「遊歴護照」(旅行ビザ)を受領。英国政府の中華民国(当時)政府への武器輸出が「交換条件」であった。米国人で壁画移しの技術を有する地質学者ミルトン・ブラムレットがハーバード大学を代表して参加した。

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スタインへの「旅行ビザ」(拙論「スタイン・・・」より)

行動制限と古物持ち出しを厳重監視せよ:ビザ発給を知った中央研究院(政府直轄の最高学術研究機関)が動き出した。行政院から中央研究院への6月4日公函には「行動制限と古物持ち出しを厳重監視せよと新疆などの軍と民の長官へ命令した」とある。スタインは8月11日英領インド帝国スリナガルを出発し、前進つづけるも入国許可出ず立ち往生。英国駐南京総領事から外交部への強力交渉により、9月21日行政院から新疆省政府の金樹仁主席へ特急電「遊歴許可と文物発掘禁止」が発せられ、スタインは同日キリク関を越え中国へ入った。翌22日外交部から新疆省政府金主席への電文「入境許可と文物発掘禁止、厳重監視」には「英国使者が今回スタインは古物を探し求める目的はないと明言しているので、入境を許可」とある。

大英帝国駐カシュガル総領事館で待機:スタインは10月6日大英帝国の最前線基地といえる駐カシュガル(現在の喀什)総領事館に到着し、総領事シェリフ大尉らから大歓迎を受けた。総領事や地元有力者を通じて出発許可交渉やスウェーデン宣教師訪問などで過ごす。ハーバード大学を代表して参加していたブラムレットは滞在中に病気となり離脱帰国する。

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旧英総領事館屋上に残るスタイン射撃練習銃痕と筆者(撮影:其尼瓦克ホテル)

軍路を探る陰謀、ビザ取り消し、即日出境命令:難航した出発許可ようやく出て、県長による送別昼食会も開催され、11月11日カシュガル出発、監視員が同行。各地で歓迎を受ける一方で、12月31日行政院から省政府金主席への密電に「古物発掘と軍路測量の陰謀、国防と学術を擁護するためビザ取り消し、即日出境命令」とある。スタインは英領インド帝国の測量員同行のもと遺跡以外に各地で詳細な測量を実施している。「軍路」測量の意図はなくても、疑われるのは当然であろう。第二次新疆探検報告書にはほぼ新聞大の各地測量図が94枚添付されている。第一次から三次探検でスタインが雇ったウイグル族イブラヒムが投獄されるなど気苦労も重なってか気管支炎となりケリア(現在の于田)で20日間療養。

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行政院の「軍路測量の陰謀・・・」1930.12.31発信密電(『斯坦因第四次新疆探検・・・』より)

監視人の目を盗みニヤ遺跡「発掘」:ニヤオアシス(現在の民豊)経由ニヤ遺跡へ1931年1月16日に到達し調査、21日の日記には「作業員アブドラが3人を連れて夜明け前に出発し、N14を“クリーニング”に行った。自分自身は丸一日テントで発見物の荷造りや日記を書く。こうすれば監視人たちを引きつけておくことが出来、現場へ出かけ調査に介入できない」などと記されている。翌22日には「8時15分、監視人たちの起床前に出発。N6・N5・N15・N2・N1・仏塔など調査。N3を“クリーニング”。漢文木簡25点など遺物多数収集」と。スタインが日記に“クリーニング”と記したのは禁止されている「発掘ではない」と主張するためであろう。25日ニヤ遺跡を後にする。

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スタイン日記「完全清掃」(拙論「スタイン・・・」より)

キジル千仏洞で破損をなげく:エンデレ遺跡調査、チェルチェン(現在の且末)、チャルクリク(現在の若羌)、コルラ(庫尓勒)を経てクチャ(庫車)に至り、4月2日の日記に「キジル千仏洞観察、切断された壁画が多い。破損はすでにゆゆしきところに達している」。これまでの探検で各地の遺跡で大規模な発掘を行い、敦煌からは購入という形で、大量の文物を持ち出したスタインが外国探検隊により荒らされた石窟を見て「破損はすでにゆゆしきところに達している」とは二重基準と言えよう。敦煌文書の持ち出しでも「壁画と彫像は民衆の宗教儀式のためのものである。しかし、文書は当然、研究のためのものである」と自分なりの理由をつけている。

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剝ぎ取られ痛々しいキジル第224窟「初転法輪」壁画(撮影:筆者)

出境を命令し取得文物と写真を差押えよ:アクス(阿克蘇)を経由して4月25日大英帝国駐カシュガル総領事館帰着、総領事らの出迎えを受ける。収集文物整理などして過ごす。総領事を通じての度々の継続調査要請も拒否される。5月6日の国民政府蒋中正(介石)から行政院への訓令に「即日出境を促せ」と。13日の行政院から省政府等への令には「出境を命令し取得文物と写真を差押えよ」と。5月18日カシュガル出発。

失意の出国:6月3日ギルギットへ前進「4時起床。8時30分に峠(中国と英領インド帝国を分ける国境)へ到着。海抜4,084m。ムルクシに下り、護送するために派遣された人の出迎えを受ける」。スタインにとって屈辱的失敗に終わった第四次新疆探検。彼が中国から出国したこの日は、その巧みな交渉により敦煌莫高窟仏典類を大量譲渡し、スタインに“Sir”の栄光をもたらした王圓籙道士が逝去した日(民国20年旧暦4月18日)であった。スタイン正味出国日と王道士逝去日が同一日という「二人の奇妙な恩讐」。筆者は2014年5月、敦煌莫高窟前の「道士塔」でその心中を思い誦経した。

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スタイン撮影の王圓籙道士(『スタイン報告書』より)

カブールに死す:7月2日スリナガル帰着。第三次探検までは出版していた報告書は出さなかった。1932年から36年にかけてイラン政府から許可をえて四次にわたりイラン考古学調査を実施。1943年4月スタインはハーバード大学の友人からアフガニスタンの首都カブールへの招待を受けた。10月19日米国公使館の車で英領インド帝国ペシャワールからカブールへ到着。研究心いまだ衰えぬ彼はすぐに博物館で研究に着手した。風邪をひき療養するも悪化。26日に旅立った。81歳になる1ヵ月前であった。「異郷での生涯探検人生」は終わった。葬儀には、アフガニスタン国王代理や英・米・露・ペルシア・イラクなどの公使らが参列した。墓はカブールの外国人墓地にあり、親友アレンの夫人による墓碑がある。

スタインが残した文物は今どこに:筆者は永年にわたり中国側とニヤ遺跡やダンダンウイリク遺跡の共同調査を展開してきた。考古研究者らへスタインが残した150点余の文物について度々質問した。彼らも調べたようだ。残念ながら現時点では、その所在は不明である。「風説」としては、北京にある、英国にある、インドにある、中国で売られ散逸したなどと聞く。文物とともに持ち出しを禁止された写真は大英図書館・ハンガリー科学アカデミー図書館に所蔵されている。

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スタインが総領事館に残した文物一覧(『斯坦因第四次新疆探検・・・』より)

グレートゲームの先兵:19世紀末から20世紀初頭にかけての中央アジアをめぐる英露を中心とした覇権争いは「グレートゲーム」と称された。シルクロード探検はその先兵とも言われている。例えば杉山二郎「スタインとその時代」は「大谷探検隊も仏教調査団でありながら、何らかの形で軍機密にあずかっていたとみたいのである。政商久原房之助氏を媒体とした、軍部とくに参謀本部からのかなりの機密費が捻出転用されていたのではないかと推測」、金子民雄『西域探検の世紀』も「一般に情報・外交戦と探検調査とはまったく無関係に見えるが、実はお互い密接な関わりを持っていた。探検は純粋な学問的研究であった半面、高度な情報収集作戦でもあった。だから各国は莫大な探検資金を惜しみなく出したのだった」と記している。

今もなおグレートゲーム:帝国主義時代に限らず21世紀の今もロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナハマス殲滅戦など強国による攻撃が行われている。世界の友好・平和・繁栄をめざし、国際社会共通の目標として2015年国連で全会一致採決されたのがSDGs(持続可能な開発目標)。その17項目のひとつに「平和と公正をすべての人に」があるが、現実はほど遠い。世界81億人は運命共同体!(07/28記)

1942年名古屋生まれ。佛教大学卒。浄土宗僧侶、国際協力実践家。66年「宝石の鶴亀」(後にツルカメコーポレーション・あずみと社名変更、現エステールHD)を起業。93年株式上場。96年創業30周年を機に退任。中国新疆へは82年以来、150回以上訪問しキジル千仏洞修復保存、ニヤ遺跡やダンダンウイリク遺跡を日中共同で学術調査するなど文化財保護研究・人材育成など国際協力を多数実践。佛教大学客員教授を歴任し現在は佛教大学内ニヤ遺跡学術研究機構代表、新疆ウイグル自治区政府顧問。編著『日中共同ニヤ遺跡学術調査報告書』『日中共同ダンダンウイリク遺跡学術調査報告書』『念仏の道ヨチヨチと』『新疆世界文化遺産図鑑』『中国新疆36年国際協力実録』『Kizil, Niya, and Dandanoilik』『21世紀は共生・国際協力の世紀 一帯一路実践談』「スタイン第四次新疆探検とその顛末」など。日本「外務大臣表彰」・中国「文化交流貢献賞」「人民友好使者」ほか受賞。