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アートへの招待 続・番外編 「青が誘(いざな)うウズベキスタン 萩野矢慶記写真展」へのお誘い
文化ジャーナリスト 白鳥正夫シルクロードの言葉から何を連想しますか。行けども果てしない大地であり、遥かな山々や草原であり、沙漠の中に拓かれたオアシスであるかもしれない。狭い島国・日本にとっては、好奇心に満ちた異文化地域だ。そのシルクロードの十字路に位置し、オアシスの要所であるウズベキスタン共和国は1991年、ソ連の解体とともに独立した。ロシア依存を脱却し、今回のロシアのウクライナ侵攻でも距離を置いている。わが国との関係も良好に進展し、双方が大使館を開設済みで、人的交流も活発だ。その外交関係樹立30周年を記念する「青が誘うウズベキスタン 萩野矢慶記写真展」が、横浜ユーラシア文化館で2月26日まで開催されている。同館では、企画展「江上波夫没後20年 ユーラシアへのまなざし―造形の美と技―」を2月12日まで併催中なので、こちらも取り上げる。
「青が誘うウズベキスタン 萩野矢慶記写真展」のチラシ
趣味から独学、脱サラしプロの写真家に転身
1997年に「ウズベキスタンを巡る旅」に参加した萩野矢さんは、シルクロードに魅せられ、日本人として初めて独立したウズベキスタンの写真撮影を行った写真家だ。新年最初の寄稿は、シルクロードをライフワークとする筆者の長年の友人でもある萩野矢さんの活動を記す。まずは40年にわたる写真家人生の足跡から。
萩野矢さんは1938年、栃木県生まれ。専修大学商経学部を卒業後、コンピュータ輸入会社を経て保冷車やトレーラーなどの車両機器メーカーに就職し、営業部長に昇進していた44歳の時に写真家に転身した。「酒も、マージャンやゴルフもやらない私にとって、唯一の趣味は写真でした。ストレスのたまる競争社会からの脱皮もありました」と、当時を振り返る。
家族は奥さんと小学生の二人の男児がいた。安定収入の道を捨てるのには勇気がいった。しかし失敗したらもう一度やり直せるぎりぎりの年齢だと思った。上司や同僚から「そんなに甘くはない。バカなまねはよせ」と忠告されたが、一途な萩野矢さんに周囲も理解した。
写真は独学の萩野矢さんだったが、それなりの自信を秘めていた。初めて応募した東日本観光写真コンクールで「浅草三社祭」を撮った作品が一等賞を獲得したのだ。それ以来、落選を気にせず応募を続け、多い年で40回、10数年で何と300回にも及ぶ入賞を果たしていた。プロになろうと考えたのは、こうしたコンテスト応募で、主催者の意図に沿った写真を撮ることに疑問を感じ、テーマを選んで撮りたくなったからだった。
とりわけ「子どもの遊び」に夢中になった。 休日ごとにカメラを持って街を歩き、遊びを失いつつある子どもの姿を追い続けた。プロ転向の1983年に、早くも個展「遊べ東京っ子」を東京のコニカ(小西六)フォトギャラリーで開催できた。以後、毎年のように「子供に遊びを」「東京かくれんぼ」「東京の子供たち」「子ども新時代」「すばらしき一歳児」「街から消えた子どもの遊び」などの個展を開くようになった。
「子どもの遊び」から、団地にて ©萩野矢慶記
「子どもの遊び」から、ブランコ ©萩野矢慶記
しかし都市化が進み、子どもたちの戸外遊びが消え、撮る対象を失った萩野矢さんは、海外の子どもたちへ、そして自然や文化財へと目を向けた。近年は「東京に咲く花」を加えている。これまで60ヵ国をはじめ国内全都道府県を撮影取材。写真展、写真集、実用書、雑誌、コマーシャルなどで多くの作品を発表している。
「写真家として生きていくためには、自分のやっていることを知ってもらわねばなりません。個展を開くこと、写真集を出すことが必要です。そのためには、いつも新しいテーマを追い続け、それを撮りきりたい」という萩野矢さん。84歳になった現在も、定年のない写真家人生を続けている。
皇居の石垣をおおう紅葉 ©萩野矢慶記
この間、1983年に第35回三軌展文部大臣奨励賞、1986年に中国撮影家協会上海分会栄誉褒賞を受賞。1994年に写真集「街から消えた子どもの遊び」(大修館書店刊)をはじめ、ギリシャ、トルコ、ウズベキスタンなど多数の写真集を出版している。公益社団法人日本写真家協会、同じく日本写真協会、一般社団法人日本旅行作家協会会員である。
シルクロードの魅力あふれる歴史的建造物
シルクロードは、西のローマから東の西安や洛陽にいたる広大なアジアを横断する古代通商路で、中国から西へ絹が運ばれ、この名に由来する。西からも宝石や玉、織物など様々なものが行き来し、イスラーム教も、インドからの仏教もこの道を通じ伝わった。それだけにシルクロードで結ばれた広大な国や地域はアレクサンドロスの東征、アラブの侵入、チンギスハーンの西征、さらにはティムール帝国の拡大など歴史的に興亡を重ねてきた。
幾度かの破壊と再生を繰り返しながら、「石の町」とされる首都タシケントをはじめ、「青の都」と称されるサマルカンド、中世の面影をとどめる「僧院」の町ブハラ、「聖都」ヒヴァなど世界遺産も散在し、近年は観光の面からも注目を集めている。
萩野矢さんは、ツアーから帰国後、駐日ウズベキスタン大使から撮影許可を取り付け、1998年に撮影取材。その成果を2000年に写真集『ウズベキスタン シルクロードのオアシス』(東方出版刊)に著した。この時、カリモフ大統領から感謝状を拝受した。
さらに2008年以降、アナログからデジタルカメラに切り替え、ウズベキスタン全土に撮影エリアを広げ再挑戦し、2016年に『ウズベキスタン・ガイド シルクロードの青いきらめき』(彩流社刊)を出版している。この本では、文章も書き、その興亡史にも触れている。
ウズベキスタンの最初の個展は、2001年に東京と札幌のコニカプラザの「ウズベキスタン シルクロードのオアシス」だった。東京展では、 ウズベキスタン駐日大使とともに紀宮様がご高覧され、萩野矢さんが案内役を務めた。
「ウズベキスタン シルクロードのオアシス」展から、《キジュル・クム砂漠》 ©萩野矢慶記
「ウズベキスタン シルクロードのオアシス」展をご高覧の紀宮様(右端がウズベキスタン駐日大使、左端が萩野矢慶記さん)
その後、筆者も関西で写真展を開きたいとの要望を知人から耳にして、2005年に京阪百貨店守口店での開催を支援した。現地で反政府暴動が起き、500人を超す死者が出た報道の直後ということもあったが、6日間の会期中に約3500人の入場者があった。
横浜ユーラシア文化館では2007年に「青い煌き ウズベキスタン 萩野矢慶記写真展」開催しているが、2008年以降の撮りおろし作品を中心にした今回の写真展が実現した。シルクロードのオアシスとして栄えたウズベキスタンのイスラーム建築の壮麗なタイルに彩られた歴史的建造物や、そこに暮らす人々の姿を撮った写真作品約50点のほか、サマルカンドの土人形やドッピという伝統的な帽子、昔ながらの技法で作られた色鮮やかな陶器などの工芸品も合わせて展示されている。
サマルカンドの土人形(森美可氏所蔵)
昔ながらの技法で作られた色鮮やかな陶器(横浜ユーラシア文化館蔵)
ドッピという伝統的な帽子(萩野矢慶記氏所蔵)
写真展のチラシの表紙を飾るのはサマルカンドの《グーリ・アミール廟》。グーリは墓、アミールは王を意味する。青く煌めくドーム、幾何学文様や植物文様で装飾されたタイルの壁面、中央アジアのイスラーム建築美が伝わる迫力ある写真だ。筆者もサマルカンドのレギスタン広場で月光とライトアップされた青のドームの美しさに魅了されたものだった。
サマルカンドの《グーリ・アミール廟》 ©萩野矢慶記
イスラーム建築では、ヒヴァの高さ45メートルの《イチャン・カラ(内城)のミナレット》や、ブハラの1万人以上が礼拝出来る《カラーン・モスクの夕映え》といった外観の美しさを捉えた作品や、サマルカンドにある《ティラカリ・マドラサのドーム内部》、旧ロシア公使の私邸だった宮殿装飾のタシケントにある《ウズベキスタン工芸博物館の大広間》などにも目を奪われる。
ヒヴァの《イチャン・カラ(内城)のミナレット》 ©萩野矢慶記
ブハラの《カラーン・モスクの夕映え》 ©萩野矢慶記
サマルカンドの《ティラカリ・マドラサのドーム内部》 ©萩野矢慶記
タシケントの《ウズベキスタン工芸博物館の大広間》 ©萩野矢慶記
第二次世界大戦でソ連の捕虜になった約500名の旧日本兵が建設したタシケントの《ナボイ・オペラ・バレエ劇場》は、1966年の大地震でも劇場だけが現況を保ち、日本人の信頼度が上がり、親日感情が強まった。この地で命を落とした79名の《旧日本兵士の墓》には、「日本に帰ってもう一度花見がしたい!」との思いを受けて日本から桜の苗木が植えられている。
タシケントの《ナボイ・オペラ・バレエ劇場》 ©萩野矢慶記
タシケントの《旧日本兵士の墓》 ©萩野矢慶記
こうした作品とともに、バザール(市場)や絨毯工房、伝統楽器工房で働く人々、笑顔あふれる子どもたちなどウズベキスタンに暮らす人々の姿を生き生きと捉える作品がずらり並ぶ。展示は2階にも一部あるが、1階は無料となっている。
大根とビーツ(甘味大根)を売る女性(フェルガナ) ©萩野矢慶記
ウズベク料理の肉の串焼きを焼く男性(タシケント) ©萩野矢慶記
400人もの女性職人が働く絨毯工房の中でも優秀な絨毯職人(サマルカンド) ©萩野矢慶記
伝統楽器工房で自作のリトールを演奏する職人(サマルカンド) ©萩野矢慶記
牛と遊ぶ子どもたち(テルメズ) ©萩野矢慶記
新年を祝う町の婦人会代表たち(フェルガナ) ©萩野矢慶記
江上波夫氏が遺した貴重な未公開資料を出品
一方、「江上波夫没後20年 ユーラシアへのまなざし―造形の美と技―」は、横浜ユーラシア文化館が所蔵するコレクションの礎を築いた著名な東洋学者、江上波夫氏の没後20年にちなみ、氏が遺した未公開資料を中心に出品されている。同館は1929年竣工の旧横浜市外電話局を保存・活用した建物(横浜都市発展記念館を併設)で、そのコレクションは旧石器時代から現代までのユーラシア諸地域の文物からなる。
「江上波夫没後20年 ユーラシアへのまなざし―造形の美と技―」のチラシ
江上波夫氏(1906-2002)は、オリエント考古学の先駆者であり、アジアからヨーロッパにまたがる遊牧騎馬民族研究の第一人者である。昭和23年に発表した「騎馬民族征服王朝説」は、戦後間もない日本に大きな衝撃を与えた。北方アジアの遊牧騎馬民族が日本に攻め入り大和朝廷を開いたという大胆な仮説は世界史的な視点から日本を捉え直すきっかけとなっている。江上学説は、ユーラシアという大きな空間から日本を見るという壮大な構想から生まれた。
今回の企画展は、江上氏が長年関心をもち魅了された造形世界を探求する趣旨だ。動物の形をした西アジアの土器や美しい輝きを見せるイスラーム陶器、中国の帯鉤(ベルトのバックル)や馬具、モンゴル文字によるモンゴル語文書など、時代も地域も異なる多彩な資料を展示。最新の研究成果も踏まえて、西アジア、東アジア、東南アジアの造形文化を鑑賞できる。
主な展示品を画像とともに紹介する。《銀製牛頭飾リュトン》(イラン、紀元前 600-400年)は、飲酒用の容器。牛の頭部と前躯が動物の角の形をした器に接合している。牛の風格ある顔立ちが見どころだ。
《銀製牛頭飾リュトン》(イラン、紀元前 600-400年、横浜ユーラシア文化館蔵)
《カットガラス碗》(イラン、6世紀)は銀化によって透明性は失われているが、厚手のガラス碗に円形の切子の配置は正倉院の白瑠璃碗と同類である。《奏楽人物文大皿》(イラン、19世紀)は、釉下彩で装飾された大型の陶器。円形部分には、ターバンを巻き襟付きのマントを身に着けた三人の人物が配されている。《緑釉櫃》(中国・後漢、1~3世紀)は、金属製の形と装飾を模した陶製の箱である。側面に古代の通貨が貼り付けられていることから、墓に副葬された明器と思われる。
《カットガラス碗》(イラン、6世紀、横浜ユーラシア文化館蔵)
《奏楽人物文大皿》(イラン、19世紀、横浜ユーラシア文化館蔵)
《緑釉櫃》(中国・後漢、1~3世紀、横浜ユーラシア文化館蔵)
《動植物文敷物》(イラク、20世紀)は、織物2枚を1枚に仕上げた敷物。カラフルな色遣いで幾何学模様や動植物を大胆にデザインした刺繡が施されている。《女性用上衣》(中国貴州省、20世紀)は、山岳地帯に居住する苗族の衣服。袖に施されたデザインの上部に草花、下部の左右に龍のような動物が描かれている。
《動植物文敷物》(イラク、20世紀、横浜ユーラシア文化館蔵)
《女性用上衣》(中国貴州省、20世紀、横浜ユーラシア文化館蔵)
《釈迦の霊山説法》は、釈迦如来が霊鷲山(りょうじゅせん)上で妙法蓮華経(法華経)を説く情景を表わした図で、マーク・オーレル・スタインが敦煌で収集した仏画の写真図版に自身の解説をつけて出版した大型図録 THE THOUSAND BUDDHAS:ANCIENT BUDDHIST PAINTINGS FROM THE CAVE-TEMPLES OF TUN-HUANG ON THE WESTERN FRONTIER OF CHINA (邦題『千仏:中国西域・敦煌石窟寺院出土の古代仏教絵画』1921年刊)からの1枚である。原図は唐時代(8世紀)に刺繍で製作された縦2メートルを超す大作で、イギリスの大英博物館が所蔵している。こちらの企画展の観覧料は300円となっている。
《釈迦の霊山説法》([THE THOUSAND BUDDHASより]原図は唐時代、8世紀、横浜ユーラシア文化館蔵)