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アートへの招待14 「モディリアーニと華風到来」展、大阪市立の2つの美術館
文化ジャーナリスト 白鳥正夫構想から約40年を経て今年2月にオープンした大阪中之島美術館では、開館記念特別展「モディリアーニ ─愛と創作に捧げた35年─」を7月18日まで展開中だ。一方、もう一つの天王寺にある大阪市立美術館では、特別展「華風到来 チャイニーズアートセレクション」を6月5日まで開いている。こちらは1936年に開館した日本有数の歴史をもつ美術館で、今秋開催予定の特別展「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展」(7月16日〜9月25日)をもって約3年間の大規模な改修工事に入る。今回は、大阪市立の新旧の二つの美術館を取り上げる。
大阪中之島美術館の開館記念特別展「モディリアーニ ─愛と創作に捧げた35年─」
国内外から約40点集結、世界初公開作品も
20世紀前期のパリで開花した芸術は、新時代の幕開けを迎える躍動感に満ちていた。イタリア出身のモディリアーニはエコール・ド・パリの一員としてピカソや藤田嗣治らと共に活躍した。しかし35歳で夭折したモディリアーニの作品は、それほど多くはない。今回の展覧会では、フランス、イギリス、ベルギー、デンマーク、スイス、アメリカなどから選りすぐりを集め、さらに国内美術館等が所蔵する油彩画や水彩、素描など国内外で所蔵されるモディリアーニ作品約40点を中心に、同時代のパリを拠点に繰り広げられた新しい動向や多様な芸術の土壌を示し、モディリアーニ芸術が成立する軌跡をたどっている。
アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)は、地中海に面したイタリア北西部の港町、リヴォルノに生まれた。22歳でパリに出たモディリアーニは、モンマルトルに居を構え、一時は彫刻家を目指していたが、大戦が勃発し石材の入手難や体調面の問題から画家に戻る。
彫刻家時代の作風が引き継がれ、画業の大半を肖像画と裸婦画が占める。顔と首が異様に長く、アーモンド型の眼など特異な表現で個性的な作風を確立。 肖像画についてはモデルの心理や画家との関係を表現するが、裸体画については、女性の造形美への関心が表れているのが特徴である。
見どころは、なんといっても国内外のモディリアーニ作品約40点が集結したこと。なかでも、スウェーデン生まれの伝説的ハリウッド女優、グレタ・ガルボが生涯にわたって愛蔵した《少女の肖像》(1915年頃、グレタ・ガルボ・ファミリー・コレクション)は世界初公開だ。
アメデオ・モディリアーニ《少女の肖像》(1915年頃、グレタ・ガルボ・ファミリー・コレクション)
また大阪中之島美術館の約6000点のコレクションを代表する《髪をほどいた横たわる裸婦》(1917年)の裸婦像と同じモデルを描いたアントワープ王立美術館(ベルギー)所蔵の《座る裸婦》(1917年)が来日、大阪で初めての“再会”となった。
アメデオ・モディリアーニ《髪をほどいた横たわる裸婦》(1917年、大阪中之島美術館)
アメデオ・モディリアーニ《座る裸婦》(1917年、アントワープ王立美術館)
さらにモディリアーニとともに活躍した芸術家25人の作品を集め、「エコール・ド・パリの空間」を再現している。
展示は、プロローグと3章で構成。プレスリリースなどを参考に各章の概要と主な作品を掲載する。プロローグは「20世紀前期のパリ」。モディリアーニが過ごした20世紀初頭のパリは、華やいだベル・エポック(“良き時代”などを意味するフランス語。19世紀末から第1次世界大戦が勃発するまでのフランスの繁栄を表す)の時代から一転して、第1次世界大戦(1914~1918年)の渦中に置かれる。戦時下で苦しい市民生活を強いられる中、芸術家たちは苦難に耐えて制作した。そうした時代背景をポスター作品やパネル展示によって紹介している。
プロローグの展示風景
レオネットカッピエッロの《Poudre de Luzy》や、ジャック・カルリュの《ラ・マルセイエーズ(国家)》(いずれもサントリーポスターコレクション[大阪中之島美術館寄託])などのポスターが並ぶ。
レオネットカッピエッロ《Poudre de Luzy》(左)と、ジャック・カルリュの《ラ・マルセイエーズ(国家)》(いずれもサントリーポスターコレクション[大阪中之島美術館寄託])の展示
第1章は「芸術家への道」で、故郷イタリアからパリに到着したモディリアーニは、セザンヌなどの作品に影響を受け、キュビスムやフォーヴィスムなど新しい表現に触発される。さらに、他の芸術家と同様にアフリカ美術にも魅せられ、この時期は彫刻とカリアティード(古代建築に用いられた女性の姿を模した柱)の制作に没頭する。1913年頃までの初期作品を、彫刻制作のきっかけともなったブランクーシ作品やアフリカの仮面などと合わせて取り上げている。
第1章の展示風景
《ポール・アレクサンドル博士》(1909年、東京富士美術館)はじめ、《カリアティード》(1911-13年、愛知県美術館)、《青いブラウスの婦人像》(1910年頃、ひろしま美術館)などのモディリアーニ作品のほか、コンスタンティン・ブランクーシの《接吻》(1907-10年、石橋財団アーティゾン美術館[旧ブリヂストン美術館])などの立体作品も出品されている。
アメデオ・モディリアーニ《ポール・アレクサンドル博士》(1909年、東京富士美術館)
アメデオ・モディリアーニ《カリアティード》(1911-13年、愛知県美術館)
コンスタンティン・ブランクーシの《接吻》(1907-10年、石橋財団アーティゾン美術館[旧ブリヂストン美術館])
第2章は「1910年代パリの美術」。モディリアーニは異国出身者の総称「エコール・ド・パリ」の仲間で、仲間と豊かに交流し、文学者とも親交を深める。当時のパリは新しい美術が次々と生まれる刺激的な芸術都市だった。ピカソや藤田嗣治、シャガール、スーティンなど、パリで活躍した芸術家たちの作品を集め、モディリアーニとの関わりを中心に展示している。
ここではモディリアーニの《ルネ》(1917年、ポーラ美術館)、《フジタの肖像》(1919年、北海道立近代美術館)《ピエロに扮した自画像》(1915年、デンマーク国立美術館)とともに、キスリングの《ルネ・キスリング夫人の肖像》(1920年 名古屋市美術館)や、 マルク・シャガールの《町の上で、ヴィテブスク》(1915年、ポーラ美術館)、マリー・ローランサンの《サーカスにて》(1913年頃 名古屋市美術館)、アレクサンダー・アーキペンコの彫刻作品《歩く女》(1912年、愛知県美術館)などの多彩な作品も注目だ。
アメデオ・モディリアーニ《ルネ》(1917年、ポーラ美術館)
キスリング《ルネ・キスリング夫人の肖像》(1920年 名古屋市美術館)
アレクサンダー・アーキペンコ《歩く女》(1912年、愛知県美術館)
この章には、「特集モディリアーニと日本」のセクションが設けられ、日本とモディリアーニの関係を作品と資料によって解説。モディリアーニは、パリの共同アトリエ「シテ・ファルギエール」で日本人画家との間に交流が生まれ、なかでも藤田嗣治とは友情で結ばれていた。日本で初めてモディリアーニ作品が紹介されたのは没後の1921年。次第に評論も増え、モディリアーニをモデルにした小説の翻訳を通じて、脚色を帯びた彼の生涯が日本の若い芸術家たちを刺激した。
第3章は「モディリアーニ芸術の真骨頂 肖像画とヌード」。彫刻から絵画へ復帰したモディリアーニは、肖像画を次々に描き、絵画表現を成熟させていく。モデルとなったのは友人や知人、恋人らだった。1917年には画商ズボロフスキの勧めで裸婦の連作に取り組む。パリと南仏でこの時期に制作した作品群にはモディリアーニ芸術の真価が凝縮されている。冒頭の見どころの3作品はじめ、日本初公開となるバーゼル美術館(スイス)に永久貸与された《ドリヴァル夫人の肖像》(1916年頃、イㇺ・オーバーシュテーク財団)など珠玉の作品のオンパレード。
第3章の展示風景
アメデオ・モディリアーニ《ドリヴァル夫人の肖像》(1916年頃、イㇺ・オーバーシュテーク財団)
最終章には、《若い女性の肖像》(1917年頃、テート)、《おさげ髪の少女》(1918年頃、名古屋市美術館)、《少女の肖像(ジャンヌ・ユゲット)》(1918年、アサヒビール大山崎山荘美術館)、《大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ》(1918年、個人蔵)、《エレナ・ポヴォロスキ》(1917年、フィリップス・コレクション)、《ジャンヌ・エビュテルヌの肖像》(1919年、大原美術館)なども出揃っている。
アメデオ・モディリアーニ《若い女性の肖像》(1917年頃、テート)
アメデオ・モディリアーニ《おさげ髪の少女》(1918年頃、名古屋市美術館)
アメデオ・モディリアーニ《大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ》(1918年、個人蔵)
アメデオ・モディリアーニ《緑の首飾りの女(ムニエ夫人)》(1918年、個人蔵)
大阪市立美術館の特別展「華風到来 チャイニーズアートセレクション」
中国の書画、石造、工芸など多彩な130件展示
大阪市立美術館は、中国書画や石造彫刻、工芸など、国内屈指の中国美術コレクションを所蔵している。今回の展覧会では、その中国美術コレクションをはじめ、中国美術の影響を受けたとみられる「華風=中国風」の日本美術が130件展示されている。しかも全作品の撮影が可能で、開館以来、初めての試みとなっている。
日本で三番目に古い公立美術館として開館した大阪市立美術館は、今年で86周年を迎える。コレクションは日本、東洋の美術品を中心に約8500件を数え、わが国屈指の質の高さを誇る。その多くは市民による寄贈だ。とりわけ関西の経済界で活躍した阿部房次郎(1868-1937)が収集した中国書画、山口謙四郎(1886-1957)による中国の石造彫刻・工芸などを中心に、国内屈指の中国美術コレクションを有す。このほか工芸・仏画・近世および近代絵画といった日本美術にも、中国との関わりを多彩に示す作品が揃っている。
展示は4章構成で、第1章の「出会えばきっと好きになる。―中国の書画と工芸―」から始まる。人々を魅了してきた中国美術として、文人(詩・書・画に通じた知識人)による書画や工芸などを展示。所蔵は、すべて大阪市立美術館。
唐寅(款)の《待隠園図》(清時代 18-19世紀)の山水画に描かれているのは実在する景色ではなく、文人にとっての理想郷。煩わしい俗世から離れ隠居したいけれども叶わない。せめて絵画の中に理想の隠居生活を見出したいとの想いで描かれたのだろうか。
以下、すべて大阪市立美術館蔵
唐寅(款)《待隠園図》(清時代 18-19世紀)
趙孟頫(款)の《子母図》(清時代 18世紀)は、鮮やかな色彩の花々とともに鳥のつがいや雛たちが描かれ、生命力にあふれた緑が子孫繁栄につながる吉祥画となっている。呉歴(款)の《江南春色図》 部分(清時代 18-19世紀)も秀逸だ。ほかに《堆朱 牡丹文盆》(明時代 15世紀)は、深みのある赤色が印象的。この赤は、朱漆と黒漆を塗り重ねることで作り出されたという。
趙孟頫(款)《子母図》(清時代 18世紀)
呉歴(款)《江南春色図》 部分(清時代 18-19世紀)
《堆朱 牡丹文盆》(明時代 15世紀)
第2章は「古いものにはロマンがある。―中国の拓本と工芸―」。中国では、金属や石に刻まれた文字を分析する金石学が流行したり、石や金属に刻まれた文字を紙に写し取る「拓本」が生まれたりと、古い時代のものがロマンをかきたて重んじられてきた。《三彩 駱駝》(唐時代 8世紀)は盛唐期にこのような大型の三彩俑が副葬された。シルクロードを通じた交易の重要性を反映している。
《三彩 駱駝》(唐時代 8世紀)
第3章の「恋にはいろんな形がある。―日本の絵画と工芸―」では、中国の美術や工芸、風俗などは日本の画家たちにも影響を与え、「華風=中国風」の作品を生み出した。
この展覧会のメインビジュアルでもある島成園の《上海娘》(大正13年 1924年)は、成園が銀行員であった夫の上海勤務に同行し、現地の女性をモデルにして描いたもの。頬を染め、手元の蝋燭を見つめるチャイナドレスの女性を描き、現地の風俗が細やかに映し出されている。
島成園 《上海娘》(大正13年 1924年)
福原五岳の《唐美人図襖》(江戸時代 安永2年 1773年)は、中国風の髪型や衣装をまとった女性たちが囲碁や琴に興じており、 中国宮廷の女性の暮らしを窺わせる。椿椿山の《湖石牡丹図》(江戸時代 嘉永3年 1850年)や、小川破笠の《九貢象 象嵌 硯箱》(江戸時代 18-19世紀)なども見ごたえがある。
福原五岳《唐美人図襖》(江戸時代 安永2年 1773年)
椿椿山《湖石牡丹図》(江戸時代 嘉永3年 1850年)
第4章は「好きならたくさん集めたい。―中国の石造彫刻―」。大正から昭和初期にかけて、関西の経済人たちは中国美術を熱心に収集した。なかでも大阪出身の実業家・山口謙四郎は、文献資料を読み解き、良質な彫刻や工芸を集め、その数は224点に及ぶ。その山口コレクションを中心に、中国の石造彫刻が一堂に展示されている。
石造彫刻が一堂に展示
会場は厳かな雰囲気で、《石造 道教四面像》(北魏 永煕3年 534年)をはじめ、《石造 如来三尊像》(北魏 景明元年 500年)、《石造 如来五尊像》(隋時代 大業2年 606年)、さらには中国・河南省龍門石窟賓陽中洞 将来の《石造 菩薩立像頭部》(北魏 6世紀前半)などがずらりと並び壮観だ。
《石造 道教四面像》(北魏 永煕3年 534年)
菩薩頭部の展示
なお会場の一角では、「大阪市立美術館の歩みとコレクション」が併設展示され、作品や資料など70件が出品されている。特別展と合わせ200件には重要文化財を含む貴重な作品が多数展示されており、長期休館を前にした大規模なコレクション展となっていて、鑑賞に絶好の機会だ。
「大阪市立美術館の歩みとコレクション」の展示風景