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アートへの招待17 各地の寺社に伝わる信仰と文化財の三企画展
文化ジャーナリスト 白鳥正夫長期化する世界的なコロナ禍は、ついに第7波。科学や医学はめざましい発展を遂げているものの、この新型ウイルスの猛威は止められない。日頃、宗教に関心がなくとも、神か仏にすがりたい気持ちになる。日本の歴史を振り返ってみても、自然災害や飢饉、戦乱…、そして感染など多くの脅威に見舞われる度に救いを求め祈った。そうした中、6世紀ごろから日本に伝わった仏教が浸透した。永遠のナゾである生死の問題やさまざまな困難に救いを求め信仰が深まり、生活や文化に根付いてきた。
日本各地に伝わる信仰の歴史を端的に物語る展覧会が奈良と京都で開催。貞享本當麻曼荼羅修理完成記念の特別展「中将姫と當麻曼荼羅―祈りが紡ぐ物語―」が奈良国立博物館で8月28日まで催されている。京都国立博物館では特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺─真言密教と南朝の遺産─」が7月30日から9月11日まで、京都の龍谷ミュージアムでも企画展「のぞいてみられぇ!“あの世”の美術 -岡山・宗教美術の名宝Ⅲ-」も8月21日まで開かれる。奈良・葛城の當麻寺をはじめ、大阪・河内長野の観心寺と金剛寺、岡山の各寺社に伝わる信仰や文化財を通して、コロナ禍の重苦しい心を癒してみてはいかがだろう。
奈良国立博物館の特別展「中将姫と當麻曼荼羅―祈りが紡ぐ物語―」
修理を終えた貞享本が彩色美しい姿で展示
一夜にして蓮華の糸で曼荼羅を織りあげ、女人として生身のまま極楽往生したという不思議な伝承が残る奈良時代の中将姫(ちゅうじょうひめ)。まずは《中将姫像》(鎌倉時代、14世紀、奈良・當麻寺中之坊)を紹介しておこう。彼女が織りあげ、約1250年前に現れた“奇跡の曼荼羅”として伝わる国宝「綴織當麻曼荼羅」(つづれおりたいままんだら)が、奈良県葛城市當麻の當麻寺のご本尊であり、根本像である。この極楽浄土の様子を表す曼荼羅の成立に、極楽往生を望んだ中将姫が関わったという伝承は、鎌倉時代から現在にいたるまで、広く知られている。
《中将姫像》(鎌倉時代、14世紀、奈良・當麻寺中之坊)
當麻曼荼羅と中将姫への長い信仰の歴史のなかで、約4メートル四方の巨大な織物である綴織當麻曼荼羅の絵画による写しが多数描かれてきた。中世以降、縮小版が多数作られた一方、同じ大きさの写しも製作されてきた。最も詳細に綴織當麻曼荼羅の図様を伝え、鮮やかな色彩で描かれた名品が、江戸時代の延宝7年(1679年)に描かれ、貞享3年(1686)に霊元天皇の宸筆(しんぴつ)を得て完成したのが重要文化財 の貞享本(じょうきょうぼん)當麻曼荼羅だ。
今回の展覧会では、修理を終えた貞享本が美しい姿で展示されている。修理過程で確認された資料も紹介しながら、貞享本製作プロジェクトの全貌を鑑賞できる。そして貞享本の製作を當麻曼荼羅信仰史の一つの画期と捉え、周辺の當麻曼荼羅信仰や、連動する中将姫信仰の動向についても、詳しく解説している。日本一の霊像として信仰され続けてきた當麻曼荼羅と、女人往生(にょにんおうじょう)の主人公として長く愛されてきた中将姫が人々に尊ばれ、そして人々を救ってきた歴史に触れる絶好の機会となっている。
中将姫物語のあらすじから。奈良時代、貴族の娘として生まれた中将姫は、美しく清らかな心をもつ女性であった。しかし実母の死後、継母に疎(うと)まれ山中で殺害されそうになる。中将姫は助けられ山中で育つ。偶然父と再会し都に戻る。その後、中将姫は當麻寺で出家。極楽浄土への思いを募らせていると、阿弥陀如来と観音菩薩の化身が現れ、蓮糸で當麻曼荼羅を織りあげ中将姫に極楽の姿を示す。そして中将姫は29歳のとき、阿弥陀の来迎を受け無事極楽へ往生するとういう伝承物語だ。
展示は、第1章「霊宝・當麻曼荼羅と中将姫の物語」、第2章「二大當麻曼荼羅の修理と貞享本の製作―江戸時代の大プロジェクト」、第3章「中将姫の宝物と信仰の広がり」、第4章 「中将姫イメージの変遷ー芸能のなかの中将姫」で構成されている。前期(~8/7)と後期(8/9~)で展示替えがあり、期間中、77件(うち国宝5件、重文13件)が展示される。
主な出陳品を、プレスリリースを参考に画像と合わせて取り上げる。重要文化財の《當麻曼荼羅(貞享本)》(江戸時代、貞享3年・1686年、奈良・當麻寺)は、根本本尊の図様を最もよく伝える同じ大きさの曼荼羅で、修理によって色とりどりの彩色が一層鮮やかになった。修理時に軸木内から発見された文書類や、周辺の関連史料から描かれた経緯も明らかで、京都・大雲院の僧性愚が、綴織當麻曼荼羅、室町時代の写しである文亀本當麻曼荼羅の修理を行ったうえで作らせ、當麻寺に納めたことが知られる。
重要文化財《當麻曼荼羅(貞享本)》(江戸時代、貞享3年・1686年、奈良・當麻寺)
次いで《厨子入中将姫坐像》(江戸時代、延宝9年・1681年、京都・大雲院)は、綴織、文亀本の修理を経て、貞享本當麻曼荼羅を作らせた大雲院の性愚が、一連の事業が一段落した時期に作らせた。厨子扉には縁起説話を題材にした絵画が描かれている。
《厨子入中将姫坐像》(江戸時代、延宝9年・1681年、京都・大雲院)
国宝の《當麻曼荼羅厨子扉》(鎌倉時代、仁治3年・1242年、奈良・當麻寺)は、奈良時代末に安置された厨子に、鎌倉時代)に取り付けられた扉で、黒漆塗に蒔絵を施し蓮池をあらわす美麗な品である。下方には多くの結縁者の名前が記され、僧侶のみならず、源頼朝、北条泰時といった武家の有力者、九条教実ら公家の有力者を含む多数の僧俗男女が結縁しており、歴史史料としても貴重だ。
国宝《當麻曼荼羅厨子扉》(鎌倉時代、仁治3年・1242年、奈良・當麻寺)
同じく国宝の《當麻曼荼羅縁起》(鎌倉時代、13世紀、神奈川・光明寺)は、當麻寺の本尊である綴織當麻曼荼羅の成立に関する縁起説話を題材にした現存最古の絵巻物。當麻寺の草創について簡略に触れた上で、出家した一人の貴族女性(のち中将姫と呼ばれる)の前に、阿弥陀の化身の尼と、観音の化身の織女が現れ、蓮糸で巨大な曼荼羅(綴織當麻曼荼羅)を織り上げたという話を、大画面を用いて表す。重要文化財の《當麻曼荼羅縁起》(室町時代 享禄4年・1531年、奈良・當麻寺)も出品されている。
国宝《當麻曼荼羅縁起》(鎌倉時代、13世紀、神奈川・光明寺)
重要文化財《當麻曼荼羅縁起》下巻部分(室町時代 享禄4年・1531年、奈良・當麻寺)
《称讃浄土仏摂受経》(奈良時代、8世紀、奈良・當麻寺奥院)は、『阿弥陀経』の異訳で、釈迦が阿弥陀の西方極楽浄土への往生を勧める内容。當麻曼荼羅の縁起説話で中将姫が一千巻のこの経典を書写したとされたことから、現存する経典のほとんどは中将姫ゆかりの霊宝として伝わる。
《称讃浄土仏摂受経》(奈良時代、8世紀、奈良・當麻寺奥院)
重要文化財の《刺繡阿弥陀三尊来迎図》(鎌倉~南北朝時代、13~14世紀、滋賀・宝厳寺、前期展示)は、刺繍で表された阿弥陀三尊来迎図。中世には、主に死者の供養のためにこうした繡仏が多数作られたが、その多くは中将姫作と伝承されて後世に伝えられた。本図もその一つで上方や周囲に梵字を表す構成も興味深いが、下方に尼と女性が手を合わせ向かい合うさまが表されていることから、製作時に中将姫説話が意識された可能性がある。
重要文化財《刺繡阿弥陀三尊来迎図》(鎌倉~南北朝時代、13~14世紀、滋賀・宝厳寺、前期展示)
《藕糸織(ぐうしおり)阿弥陀三尊来迎図》隠元隆琦賛(江戸時代、寛文11年・1671年、福岡・福聚寺)は、北九州市の黄檗宗寺院である福聚寺(ふくじゅじ)に伝わる蓮糸織り(藕糸織))仏画の一つ。福聚寺を創建した小倉藩初代藩主小笠原忠真の側室であった永貞院が、中将姫に私淑(ししゅく)して作らせた。
《藕糸織阿弥陀三尊来迎図》隠元隆琦賛(江戸時代、寛文11年・1671年、福岡・福聚寺)
《金春禅鳳自筆本「當麻」》(室町時代、16世紀、東京・野上記念法政大学能楽研究所般若窟文庫)は、世阿弥作と考えられる能「當麻」の写本。書写した金春禅鳳は、応仁の乱後の能界を代表する能作者で、「當麻」の謡本としては現存最古級になる。この曲では、熊野詣からの帰途に當麻寺に参詣した僧たちが、かつて中将姫の前に現われた化尼と化女から、念仏の功徳や、當麻曼荼羅の謂われを聞く。化尼と化女が雲に乗って消えた後、中将姫の精魂が現れ、阿弥陀の浄土と念仏を讃えて舞う。
《金春禅鳳自筆本「當麻」》(室町時代、16世紀、東京・野上記念法政大学能楽研究所般若窟文庫)
この當麻曼荼羅信仰の広がりは、中将姫の存在によって支えられ、室町時代に能の「當麻」や「雲雀山」といった演目として成立し、江戸時代になると浄瑠璃や歌舞伎にも登場。明治時代には奈良の宇陀青蓮周辺に伝わっていた婦人薬を商品化した津村順天堂の「中将湯」が生まれる。 展覧会を担当した奈良国立博物館の北澤菜月・学芸部主任研究員は図録に「當麻曼荼羅は、中将姫の物語とともに極楽往生を願う人々から大切にされ続けるだけでなく、一方で中将姫が仏教説話を超えて広く知られるようになることで、両者は別の文化圏で影響力を保ち、さらにそれが相互に作用することで長く伝えられたとも考えられる」と言及している。
なお奈良国立博物館では、「わくわくびじゅつギャラリー はっけん!ほとけさまのかたち」を同時開催している。如来や菩薩、明王や天など仏像や仏画に表されたほとけさまのかたちに注目し、そこに込められた祈りや意味について解説する、子どもから大人まで楽しめる内容だ。《弥勒菩薩像》(鎌倉時代、13世紀、奈良・林小路町自治会)や、重要文化財の《多聞天像》(平安~鎌倉時代、11~12世紀、奈良国立博物館)など、こちらも見応えがある。
《弥勒菩薩像》(鎌倉時代、13世紀、奈良・林小路町自治会)
重要文化財《多聞天像》(平安~鎌倉時代、11~12世紀、奈良国立博物館)
京都国立博物館の特別展「河内長野の霊地 観心寺と金剛寺─真言密教と南朝の遺産─」
貴重な文化財130件、新発見の寺宝も公開
京都から高野山に続く街道の合流地点として栄えた大阪・河内長野市。当地には観心寺と金剛寺という真言密教の古寺があり、この地域における信仰の中心を担ってきた。朝廷が南北に分かれて争った14世紀、京都奪回に失敗した南朝方の後村上天皇の仮の御所・行宮(あんぐう)となり、南朝勢力の拠点として重要な役割を果たした。現在でも、武将・楠木正成ゆかりの寺として多くの歴史ファンに親しまれている。
京都国立博物館では 2016~19 年度にかけて、両寺の文化財調査を実施した。今回の展覧会では、その成果を公開する機会として、従来知られた名品に加え、調査によって見出された貴重な文化財など130 件一堂に。楠木正成やその一族が着用あるいは奉納したと伝わる重要文化財の甲冑 22 件も一挙公開される。前期(~8/21)と後期(8/23~)で展示替えがある。
展示は3章構成。こちらもプレスリリースを参考に、章の概要と主な展示品を掲載する。いずれも通期展示。
第1章は「真言密教の道場」。観心寺と金剛寺は、ともに奈良時代の開創と伝えられるが、はっきりとした記録が残るのは平安時代以降。両寺とも古くから中央政権や高野山との関係の中で真言道場としての基盤を拡大したため、優れた仏像、仏画、仏具、仏典などが集積された訳だ。
観心寺は、空海(774~835)の高弟・実恵(786~847)とその弟子・真紹(797~873)が整備して、定額寺に列せられた。当時の財産目録《観心寺勘録縁起資財帳》(平安時代、元慶7年・883年、大阪・観心寺)には、現存する仏像がすでに安置されていたことが記されている。嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子の帰依を受け、一流の仏師によってつくられた現本尊「如意輪観音坐像」(本展では模刻の展示)や、重要文化財の《伝宝生如来坐像(弥勒菩薩)》(平安時代、9世紀、大阪・観心寺)が出品されている。
国宝《観心寺勘録縁起資財帳》(平安時代、元慶7年・883年、大阪・観心寺)
重要文化財《伝宝生如来坐像(弥勒菩薩)》(平安時代、9世紀、大阪・観心寺)画像提供:公益財団法人美術院 撮影:金井杜道
さらに《大随求菩薩像》(鎌倉時代、13世紀、大阪・観心寺)や、《観音菩薩立像》 (飛鳥時代後期、7世紀、大阪・観心寺)はいずれも重要文化財だ。
重要文化財《大随求菩薩像》(鎌倉時代、13世紀、大阪・観心寺)
重要文化財《観音菩薩立像》(飛鳥時代後期、7世紀、大阪・観心寺)
金剛寺は平安時代後期、高野山で学んだ阿観(1136~1207)が、貴顕の帰依によって再興を果たし、盛んな教学研究がおこなわれた。鳥羽天皇の皇女・八条院の帰依によって境内が整備され、「尊勝曼荼羅図」を立体化した巨大な三尊が金堂に安置された(完成は阿観没後)。また、学問所として発展し、新発見の重要文化財《遊仙窟》(鎌倉時代、元亨元年・1321年、大阪・天野山金剛寺)などの古典籍を多く伝える。
重要文化財《遊仙窟》(鎌倉時代、元亨元年・1321年、大阪・天野山金剛寺)
《厨子入愛染明王坐像》(鎌倉~南北朝時代、13~14世紀、大阪・天野山金剛寺)も新しく発見された文化財だ。国宝の《剣 附黒漆宝剣拵》(剣:平安時代、10世紀 拵:鎌倉時代、13世紀、大阪・天野山金剛寺)も注目だ。
重要文化財《厨子入愛染明王坐像》(鎌倉~南北朝時代、13~14世紀、大阪・天野山金剛寺)
第2章は「南朝勢力の拠点」。観心寺と金剛寺は、南北朝の動乱において南朝方と深い関わりをもった。鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇(1288~1339)のもとで活躍した武将・楠木正成(?~1336)は、今の南河内郡千早赤阪村出身とされ、少年期に観心寺で学んだともいわれ、当地域を基盤に武士団を形成した。吉野で南朝を立てた後醍醐天皇は、京都奪回の悲願を子の後村上天皇(1328~68)に託す。しかし、足利氏率いる北朝勢力の前に退転せざるを得ず、金剛寺の摩尼院・食堂を、次いで観心寺を行宮とした。南朝方の古文書、後村上天皇ゆかりと伝わる仏像・楽器といった品々は、こうした苦難の歴史を語り継ぐ遺産といえる。なかでも、楠木正成とその一族が着用あるいは奉納したと伝わる大量の甲冑は、当地出身の名将への尊慕を感じさせる。
ここでは、重要文化財の《厨子入愛染明王坐像》(鎌倉~南北朝時代、13~14、世紀、 大阪・観心寺)や、重要文化財の《藍韋威腹巻》(室町時代、15~16世紀、大阪・天野山金剛寺)、《琵琶》(南北朝~室町時代、14~15世紀、大阪・天野山金剛寺)などが展示。
重要文化財《藍韋威腹巻》(室町時代、15~16世紀、大阪・天野山金剛寺)
《琵琶》(南北朝~室町時代、14~15世紀、大阪・天野山金剛寺)
第3章は「河内長野の霊地」。室町時代に入り、観心寺と金剛寺は河内国守護・畠山氏の庇護下で寺勢を回復させる。比較的安定した状況のもと、豊臣秀頼(1593~1615)による大規模な再興事業をはじめ、両寺の堂宇は近世を通じて営繕が進められ、儀礼や法具類の整備もたびたびおこなわれたと推測される。
伝法の儀式・灌頂に用いられたと伝わる国宝《日月四季山水図屏風》(室町時代、15~16世紀、大阪・天野山金剛寺)もこの頃の作品として知られる。《板絵種子五社明神図》(室町時代、天文23年・1554年、大阪・観心寺)も新発見の作品だ。続く江戸時代も含め、両寺が在地の大寺院として信仰を集めた様子が窺える。
国宝《日月四季山水図屏風》右隻(室町時代、15~16世紀、大阪・天野山金剛寺
《板絵種子五社明神図》(室町時代、天文23年・1554年、大阪・観心寺)
龍谷ミュージアムの企画展「のぞいてみられぇ!“あの世”の美術 -岡山・宗教美術の名宝Ⅲ-」
岡山県下の浄土教美術をクローズアップ
なんとも怖いがユーモアのあるタイトルの展覧会は、2020年から開催の「岡山・宗教美術の名宝」シリーズ第3弾。今回は、岡山県の寺社・個人からの寄託品の中から、「法然上人」・「地獄・極楽」・「熊野比丘尼」の三つのキーワードを軸に、岡山県下の浄土教美術をクローズアップしている。
岡山県は古代から宗教文化が豊かに育まれ、中世においては、浄土宗開祖の法然、臨済宗開祖の栄西といった、日本の仏教史に名だたる高僧を輩出した。また、古くから瀬戸内海を介して、畿内や四国と密接に結びつき、弘法大師信仰をもとに真言宗寺院が勢力を広げた。
「岡山・宗教美術の名宝」シリーズは、岡山県立博物館の改修工事にあわせ、同館の所蔵品及び寄託品の一部を預かることとなり実現した。最初の「ほとけと神々大集合」では、「密教」と「神仏習合」という二つのテーマを柱とした。続く「釈迦信仰と法華経の美術」では、「釈迦信仰」と「法華経」をテーマに展開した。
今回の展示構成は、第1章が「法然さん ―Born in 岡山!―」。浄土宗を開いた法然上人(1133~1212)は、美作国久米(現在の岡山県久米郡)の出身で、岡山育ち。親鸞聖人(1173~1262)の師として仰がれた。法然上人の生涯を描いた絵巻《法然上人伝法絵》(鎌倉時代、岡山県立博物館)を中心に、日本浄土教の礎を築いた法然上人の波乱万丈の生涯に迫る。
《法然上人伝法絵断簡「臨終」》(鎌倉時代、岡山県立博物館)画像提供:岡山県立博物館
《善導法然二祖像》(室町時代、岡山県立博物館)は、法然が生涯で最も尊敬した中国の善導大師(613~681)とともに描かれている。法然は、善導大師が著した『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』をきっかけに、念仏こそが人々を救う方法であると説いた。
《善導法然二祖像》(室町時代、岡山県立博物館)画像提供:岡山県立博物館
第2章は「地獄・極楽@岡山」。人々は死ぬ瞬間にほとけさまが迎えに来る来迎図」によって、極楽浄土に生まれ変わることを期待した。重要文化財の《阿弥陀二十五菩薩来迎図》(鎌倉時代、瀬戸内市・遍明院)をはじめ、《阿弥陀三尊十仏来迎図》(室町時代、真庭市・木山寺)、《遣迎二尊十王十仏図》(鎌倉~南北朝時代、真庭市・木山寺)などが出品されている。
重要文化財《阿弥陀二十五菩薩来迎図》(鎌倉時代、瀬戸内市・遍明院)画像提供:岡山県立博物館
《阿弥陀三尊十仏来迎図》(室町時代、真庭市・木山寺)画像提供:岡山県立博物館
《遣迎二尊十王十仏図》(鎌倉~南北朝時代、真庭市・木山寺)画像提供:岡山県立博物館
一方、死後の世界を決めるのは10人の“裁判官”だ。重要文化財の《地蔵十王図》(室町時代、総社市・宝福寺)は、地獄の苦しみから救済してくれるお地蔵さんと一緒に描かれている。
重要文化財《地蔵十王図 のうち》(室町時代、総社市・宝福寺)画像提供:岡山県立博物館
最後の第3章は「熊野比丘尼のふるさと」。旧邑久郡の下笠加(現在は瀬戸内市)は、江戸時代に「熊野観心十界曼荼羅」などの絵を絵解きし、諸国を旅した宗教者「熊野比丘尼」の拠点の一つとなった。ここでは熊野比丘尼の末裔たちが受け継いだ、彼女たちの活動を物語る貴重な資料群を展示されている。
《熊野観心十界曼荼羅》(江戸時代)の画面を大きく占めるのは、恐ろしい地獄の光景だ。上部に描かれた大きなアーチは、人間の一生を表す「老いの坂」で、当時の人々の“この世”と“あの世”のイメージを象徴的に表現している。
《熊野観心十界曼荼羅》(江戸時代)
《那智参詣曼荼羅》(江戸時代)は、那智大社の周辺を描いたガイドマップのような図像だ。熊野比丘尼たちは熊野三山へのお参りを勧めるのに使われたのであろう。
《那智参詣曼荼羅》(江戸時代)