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アートへの招待22 ピカソやウォーホル、ロートレック・・・注目の展覧会

文化ジャーナリスト 白鳥正夫

コロナ禍、第8波の様相。とは言っても、家に閉じこもっている訳にもいかない。感染リスクの少ない美術館では、美術愛好者に限らず名前の知られた海外アーティストたちを回顧できる展覧会が、年明けにかけて京都と大阪で展開中だ。ピカソやポップ・アートのコレクションで知られる「ルートヴィヒ美術館展 20世紀美術の軌跡―市民が創った珠玉のコレクション」が1月22日まで京都国立近代美術館で開かれている。道路を隔てすぐ前の京都市京セラ美術館 新館「東山キューブ」では「アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO」が2月12日まで開催中だ。一方、大阪中之島美術館では「ロートレックとミュシャ パリ時代の10年」が1月9日まで催されていて、いずれも内容が豊富で注目される。

京都国立近代美術館の「ルートヴィヒ美術館展 20世紀美術の軌跡―市民が創った珠玉のコレクション」

 絵画、彫刻、写真、映像を含む約150点が来日

ドイツのルートヴィヒ美術館は、20世紀初頭から現代にかけての作品で世界有数のアートコレクションを誇る。今回の展覧会では、ピカソやアンディ・ウォーホルらをはじめ、ドイツ表現主義や新即物主義、ロシア・アヴァンギャルドの魅力的な作品など絵画、彫刻、写真、映像を含む代表作約150点が来日。

ケルン市が運営するこの美術館のコレクションは、市民のコレクターたちによる寄贈を軸に形成されてきた。二度の世界大戦、東西ドイツへの分裂から統一にいたる激動の20世紀を生きた寄贈者たちは、同じく困難な現実に翻弄され、立ち向かい、社会の新しい息吹に鼓舞された、同時代の美術家たちに目を向けた。

ルートヴィヒ美術館は、ケルン大聖堂に隣接したライン河畔に、1986年に開館した。その構想は、美術コレクターとして名高いペーター&イレーネ・ルートヴィヒがケルン市に約350点の作品を寄贈した1976年に遡り、館名に名前を冠する。

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ルートヴィヒ美術館外観 Museum Ludwig, Köln / Cologne © A.R.

ケルン市立のヴァルラフ=リヒャルツ美術館からは、ケルンの弁護士、ヨーゼフ・ハウプリヒが1946年に寄贈したドイツ近代美術のコレクションを含む1900年以降の作品が移管され、ルートヴィヒ美術館の基盤が整えられた。

各章の概要と主な出品を取り上げる。序章の「ルートヴィヒ美術館とその支援者たち」では、ルートヴィヒ美術館の設立とコレクションの発展において、重要な役割を果たしたコレクターたちを紹介。オットー・ディクスの《ヨーゼフ・ハウプリヒ博士の肖像》(1951年)や、アンディ・ウォーホルの《ペーター・ルートヴィヒの肖像》(1980年)なども展示。

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左がオットー・ディクス《ヨーゼフ・ハウプリヒ博士の肖像》(1951年)
右がアンディ・ウォーホル《ペーター・ルートヴィヒの肖像》(1980年)

1章は「ドイツ・モダニズム―新たな芸術表現を求めて」。19世紀末から20世紀初めにかけてのドイツでは、新たな芸術表現を模索する芸術家グループが生まれ、彼らを支える画廊の活動が活発化した。1905年にドレスデンで結成された「ブリュッケ(橋)」と1912年にミュンヘンで誕生した「青騎士」は、新時代の芸術傾向を提示した点で重要だ。その傾向を示すワシリー・カンディンスキー《白いストローク》(1920年)や、エルンスト・バルラハの《うずくまる老女》(1933年)をはじめとする彫刻家たちの作品も出品されている。

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ワシリー・カンディンスキー《白いストローク》(1920年) Museum Ludwig, Köln / Cologne, ML 10003. (Photo: © Rheinisches Bildarchiv Köln, rba_d056273_01)

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エルンスト・バルラハ《うずくまる老女》(1933年) Museum Ludwig, Köln / Cologne, ML 76/SK 0047. (Photo: © Rheinisches Bildarchiv Köln, rba_c005052)

2章は「ロシア・アヴァンギャルド―芸術における革命的革新」で、ドイツで表現主義が拡がりを見せていた同じ頃、ロシアでも社会の大変革と連動し芸術における新たなうねりが生まれていた。カジミール・マレーヴィチは《スプレムス 38番》(1916年)のように、絵画を現実との対応関係から切り離し、円や正方形といった基本的造形要素のみで構成する絶対的に自律した無対象絵画を生み出した。

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カジミール・マレーヴィチ《スプレムス 38番》(1916年) Museum Ludwig, Köln / Cologne, ML 01294. (Photo: © Rheinisches Bildarchiv Köln, rba_d033965_01) 

3章は「ピカソとその周辺―色と形の解放」。ルートヴィヒ夫妻は、1955年にケルンで開催されたピカソの大回顧展を機に作品の収集を開始し、その後、収集対象はピカソの全時代全ジャンルにおよんだ。戦時下の精神的不安感が伝わる《アーティチョークを持つ女》(1941年)などピカソの8作品に注目だ。

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パブロ・ピカソの《アトリエにて》右端(1964年)や、《アーティチョークを持つ女》右から3番目(1941年)の展示風景

続く4章は「シュルレアリスムから抽象へ―大戦後のヨーロッパとアメリカ」。第二次世界大戦後まもないヨーロッパでは、アンフォルメル(非定形)と呼ばれる絵画が隆盛した。同じ頃、アメリカでは抽象表現主義が花開いた。ヴォルスの《タペストリー》(1949年)などが展示されている。

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 ヴォルス《タペストリー》(1949年) Museum Ludwig, Köln / Cologne, ML 01167. (Photo: © Rheinisches Bildarchiv Köln, Peter Kunz, rba_d032855_01)

5章は「ポップ・アートと日常のリアリティ」。1950年代にイギリスで始まり、アメリカで隆盛したポップ・アートは、大量消費を前提とした大衆文化を批評すると同時に、美術とは何かを問うた動向であった。アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタイン等のポップ・アートが数多く登場。

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アンディ・ウォーホル等の作品が並ぶ展示

6章は「前衛芸術の諸相―1960年代を中心に」で、還元的でシンプルな形態に向かいつつも、固有の展開を遂げた芸術の諸相を紹介。モーリス・ルイスの《夜明けの柱》(1961年)は、素地のカンヴァスに直接絵具を滲み込ませるステイニングという技法により、純化された色彩のイリュージョンを探求した。

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モーリス・ルイス《夜明けの柱》(1961年) Museum Ludwig, Köln / Cologne, ML 01091. (Photo: © Rheinisches Bildarchiv Köln, rba_d040139)

最後の7章は「拡張する美術―1970年代から今日まで」。映像やパフォーマンスなど多様に展開した現代美術の諸相を紹介。社会と芸術をつなぐ「社会彫刻」を提唱したヨーゼフ・ボイスの《シビュラ/ユスティティア》(1957年)などの作品が展示されている。

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7章「拡張する美術―1970年代から今日まで」の展示風景

京都市京セラ美術館新館 「東山キューブ」の「アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO」

 《三つのマリリン》含む100点以上が日本初公開

今回の大回顧展は、1950年代に商業イラストレーターとして活躍していた初期の作品から、1960年代に事故や死を描いた象徴的な「死と惨事」シリーズ、アンダーグラウンド映画やテレビ番組などの映像作品、セレブリティ(有名人)たちの注文肖像画、そして、その名声を揺るぎないものとしつつ、カトリックの生い立ちにも触れる晩年の作品などを包括的に展示する充実した内容。作品はすべてアメリカ・ピッツバーグのアンディ・ウォーホル美術館の所蔵作品のみで構成。絵画・彫刻など約200点および映像15点が展示されており、門外不出の《三つのマリリン》を含む100点以上が日本初公開だ。

前記展にも出品されているウォーホルは、ポップ・アートの先駆者として、アメリカの大量消費社会の光と影を描き、いまなお世界的な人気を誇る。ウォーホルは1956年の世界旅行中に初めて来日し、京都を訪れている。そんな「縁の地」の京都だけの開催で、京都とウォーホルの関係に目を向け、そのゆかりを示す貴重なスケッチなどを展示している。京都市京セラ美術館としてリニューアル オープンした2020年に開催を予定していたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響により、延期されていた。

アンディ・ウォーホル(1928-1987)は、アメリカ・ピッツバーグ出身で、そのキャリアを商業デザイナーとしてニューヨークでスタートさせ、線画にのせたインクを紙に転写する「ブロッテド・ライン」という手法を多用したイラストレーションが評判となる。

30代でアーティストとして本格的に制作を開始。初期にはアクリル絵具などでキャンバスに描いていたが、1960年代以降はニューヨークに「ファクトリー」と称するスタジオを設け、当時目覚ましい経済成長のさなかにあったアメリカの大量消費社会を背景に、版画技法のシルクスクリーンを用いた「大量生産」のアジテーションとも呼べる作品を次々と発表する。

展示は「ピッツバーグからポップ前夜のニューヨークへ」の章 からスタート。1950年代初頭から60年代にかけて、商業イラストレーターとして一躍評判となった時期の作品が展示されている。《孔雀》(1957年頃)は日本初公開。

以下の作品は、いずれもアンディ・ウォーホル美術館蔵、© The Andy Warhol Foundation for the Visual Arts, Inc. / Artists Rights Society (ARS), New York

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アンディ・ウォーホル《孔雀》(1957年頃)

続いて「ウォーホルと日本そして京都」。1956年に約2週間来日し、生け花など豊かな文化に触れた。《京都(清水寺)1956年7月25日》(1956年)など京都滞在中のドローイングや写真といった作品と、地図やお土産などの資料が展示されている。

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アンディ・ウォーホル《京都(清水寺)1956年7月25日》(1956年)

「『ポップ・アーティスト』ウォーホルの誕生」の章は、アメリカで開花したポップ・アートのムーブメントの中心人物の一人になったウォーホルの作品が並ぶ。《キャンベル・スープI:トマト》(1968年)や 《花》(1970年)、《ジーンズのラベル》がずらり。

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アンディ・ウォーホル《キャンベル・スープI:トマト》(1968年)

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アンディ・ウォーホル 《花》(1970年)

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《ジーンズのラベル》(右端)などの展示風景

次いで「儚さと永遠」の章に、日本初公開でハイライトの《三つのマリリン》(1962年)がお目見え。子供の頃からハリウッドスターに憧れていたウォーホルは、1962年、マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリー、エリザベス・テイラーといった有名人を題材とする一大肖像画シリーズの制作を始めた。そしてウォーホルの映画制作や肖像画を通して記憶され、永遠の存在となった。

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アンディ・ウォーホル《三つのマリリン》(1962年)

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「儚さと永遠」の章の展示風景

最終章は「光と影」。死と闇に焦点を当て、自殺、自動車事故、事故現場を写した雑誌や新聞の画像を使った「死と惨事」シリーズや、「最後の晩餐」シリーズといった晩年の作品を通して、謎めいたスターであり、ビザンティン・カトリックの信者であったウォーホルの複雑な一面を検証する。《自画像(髪が逆立ったかつら)》(1986年)はじめ、《ツナ缶の惨事》(1963年)、超大作の《最後の晩餐》(1986年)など見ごたえたっぷりだ。

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アンディ・ウォーホル《自画像(髪が逆立ったかつら)》(1986年)

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アンディ・ウォーホル《ツナ缶の惨事》(1963年)

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アンディ・ウォーホル《最後の晩餐》(1986年)

大阪中之島美術館の「ロートレックとミュシャ パリ時代の10年」

各年ごと比較展示、お酒の石版画含め153点

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)とアルフォンス・ミュシャ(1860-1939)が芸術の都パリで活躍した1891年から1900年までの10年間に焦点を当てた展覧会だ。ロートレック作全ポスター31点とミュシャ作品、さらにピエール・ボナールをはじめとする同時代のお酒の石版画ポスターなど約150点を展示している。

以下の作品は、いずれもサントリーポスターコレクション、大阪中之島美術館寄託

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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《アンバサドゥール、アリスティド・ブリュアン》(1892年)

見どころは、ロートレックとミュシャが発表した作品を各年ごとに比較しながら紹介するともに、寄託のサントリーポスターコレクションならではのステート違いや試し刷りの段階のものも鑑賞できる極めて稀な機会となっている。なおステートとは、同じ作品でもインクの色を変えたり文字の無いヴァージョンがあったりと、全て完成作品でも、様々なヴァリエーションがあるため、区別して呼ぶためのもの。

第1章は「1891年から1894年 《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ》 発表から 《ジスモンダ》誕生まで」。ロートレックは1891年10月、カフェ・コンセールのためのポスター《ムーラン・ルージュ、ラ・ グーリュ》を発表。同時期に挿絵画家として活動していたミュシャは、1894年のクリスマスシーズンに依頼を受け、劇場ポスター《ジスモンダ》を制作し、二人とも第1号ポスターで脚光を浴びた。

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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ(第2ステート)》(1891年)

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アルフォンス・ミュシャ《ジスモンダ》(1894年)

第2章は「1895年から1897年 〈サロン・デ・サン〉での競作」で、1895年から1897年までの間に、文芸雑誌『ラ・プリュム』が主催する美術ギャラリー「サロン・デ・サン」での展示に出品するばかりでなく個展も開催するなど旺盛な活動を展開した。ミュシャの《サロン・デ・サン 第20回展》(1896年)や《ムーズ・ビール》 (1897 年)、ロートレックの《『彼女たち』(第4ステート)》(1896年)などが出品されている。

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アルフォンス・ミュシャ《サロン・デ・サン 第20回展》(1896年)

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アルフォンス・ミュシャ 《ムーズ・ビール》(1897 年)

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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《『彼女たち』(第4ステート)》(1896年)

第3章は「1898年から1900年 ロートレックの最後のポスター、ミュシャはパリ時代のピークへ」。健康状態が悪化していったロートレックは、ドローイングに力を注ぐようになり、最後とされるポスター《学生たちの舞踏会》(1900年)もドローイングだった。一方ミュシャは、1900年開催のパリ万国博覧会でオーストリア館、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館で大いに活躍。《アメジスト(連作「四つの宝石」より)》(1900年)などが展示されている。

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アルフォンス・ミュシャ《アメジスト(連作「四つの宝石」より)》ドローイング(1900年)

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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック《学生たちの舞踏会》文字の入れられていないステート(1900年)

第4章は「1901年以降 ロートレックの死、ミュシャ装飾様式の成熟と完成」で、ロートレックは1901年、36歳にして最愛の母の居住するマルロメの城で亡くなる。万博を機に故郷チェコのために制作する決意を新たにしたミュシャは、パリを離れアメリカへ、そしてチェコへと移る。この頃、パリ時代の集大成ともいえる『装飾資料集』(1902年)を発表。《つた》や《月桂樹》(ともに1901年)など、その装飾様式は見事なまでの成熟と完成を見せる。

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アルフォンス・ミュシャ《つた》(1901年)

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アルフォンス・ミュシャ《月桂樹》(1901年)

第5章は「同時代のお酒のポスター」。この時代、パリ市民の増加と歓楽街の隆盛で、娯楽へのニーズの高まり、製造業の活発化などの諸要因により、お酒の製造販売が増え、そのためのポスターも数多く制作された。ここでは、ピエール・ボナール《フランス・シャンパン》(1891年)をはじめとする同時代のお酒の石版画ポスターも多数出品されている。

文化ジャーナリスト。ジャーナリズム研究関西の会会員。平山郁夫美術館企画展コーディネーター・民族藝術学会会員。 1944年8月14日生まれ 愛媛県新居浜市出身。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。 著書に『シルクロード 現代日本人列伝』『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』『無常のわかる年代の、あなたへ』『夢追いびとのための不安と決断』『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ!』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(いずれも東方出版)『アート鑑賞の玉手箱』『アートの舞台裏へ』『アートへの招待状』(いずれも梧桐書院)など多数。