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アートへの招待24 新春を彩る大阪と京都の展覧会
文化ジャーナリスト 白鳥正夫初めてにして決定版 浪華の名画大集結――と触れ込む、開館1周年記念特別展「大阪の日本画」が大阪中之島美術館で4月2日まで開催中だ。明治から昭和に至る近代大阪の日本画に光をあて、会期中に60名を超える画家による166点の作品を展示する史上初の大規模展。昨年2月にオープンした同館は、新型コロナ禍にも関わらず通算入場者数が50万人を超え、大阪の新しいランドマークとなっている。一方、京都府立堂本印象美術館では「音のハーモニー ―印象が奏でる風景―」が3月26日まで開かれている。新春を彩る華やいだ二つの展覧会を取り上げる。
大阪中之島美術館の開館1周年記念特別展「大阪の日本画」
会期中60名を超える画家の多彩な166点を展示
大阪は商工業都市として発展を続けるとともに、東京や京都とは異なる文化圏を形成し、個性的で優れた芸術文化を育んできた。江戸時代からの流れをくむ近代大阪の美術は、市民文化に支えられ、伝統にとらわれない自由闊達な表現が多彩かつ大きく花開いたといえる。
とりわけ大正から昭和前期にかけては画壇としての活動が隆盛を極め、人物画の北野恒富、女性画家活躍の道を拓いた島成園、大阪の文化をユーモラスに描いた菅楯彦、新しい南画を主導した矢野橋村(きょうそん)など、多くの画家が個性豊かな作品を生み出した。
また、作品が生まれた背景にも目を向けることで、個々の作品の魅力や画壇のあり方をより深く知るとともに、今につながる大阪の街の文化を浮き彫りにする。前期(~2月26日)と後期(2月28日~)で7割の作品が展示替えになる。なお大阪展後、東京ステーションギャラリーにも巡回(4月15日~6月11日)する。
展示は6章で構成されている。プレスリリースをもとに、章ごとの概要と主な展示品を画像とともに掲載する。
第1章は「ひとを描く―北野恒富とその門下」。大阪の「人物画」は、明治時代後半から昭和初期にかけて、北野恒富とその弟子たちによって大きく花開いた。当時「悪魔派」と揶揄された妖艶かつ頽廃的な雰囲気をもつ恒富の人物表現は、顔を綺麗に描いた美人画とは異なり、人の内面を画面全体で描出している点に特徴があった。急激に移り行く近代社会の市井の感覚を敏感に感じ取り、描き方や人物の表情を制作時期によって変えている点も見どころだ。
また、恒富は画塾「白耀社」を主宰するなどし、樋口富麻呂や中村貞以、島成園や木谷千種ら大阪を代表する画家をはじめ、多くの後進を指導。彼らの活躍により多彩な人物画表現が大阪で生み出されることになった。
まずは大阪の日本画壇を主導した北野恒富の《宝恵籠》(昭和6年 1931年頃、大阪府立中之島図書館蔵、通期)をはじめ、前期には、《風》(大正6年 1917年、広島県立美術館蔵)や《五月雨》(昭和13年 1938年、大阪中之島美術館蔵)、後期には《淀君》(大正9年 1920年頃、大阪中之島美術館蔵)など前・後期合わせ17点が出品される。
北野恒富《宝恵籠》(昭和6年 1931年頃、大阪府立中之島図書館蔵、通期)
北野恒富《風》(大正6年 1917年、広島県立美術館蔵、前期)
北野恒富《五月雨》(昭和13年 1938年、大阪中之島美術館蔵、前期)
北野恒富《淀君》(大正9年 1920年頃、大阪中之島美術館蔵、後期)
中村貞以の《失題》(大正10年 1921年、大阪中之島美術館蔵、通期)、《鷺娘》(大正時代頃、個人蔵[大阪中之島美術館寄託]、前期)ほか、小林柯白の《道頓堀の夜》(大正10年 1921年、大阪中之島美術館蔵、通期)、木谷千種の《芳澤あやめ》(大正7年 1918年、個人蔵[大阪中之島美術館寄託]、前期)などが展示される。
中村貞以《失題》(大正10年 1921年、大阪中之島美術館蔵、通期)
中村貞以《鷺娘》(大正時代頃、個人蔵[大阪中之島美術館寄託]、前期)
小林柯白《道頓堀の夜》(大正10年 1921年、大阪中之島美術館蔵、通期)
木谷千種《芳澤あやめ》(大正7年 1918年、個人蔵[大阪中之島美術館寄託]、前期)
第2章の「文化を描く―菅楯彦、生田花朝」では、菅楯彦によって確立された古き良き大阪庶民の生活を温かく表現した「浪速風俗画」が紹介されている。伝統的な風俗や風景を題材に絵を描き自賛を書き入れ、四条派と文人画を融合させたスタイルは、江戸時代より続く大阪人独特の洗練された感性に響くものとして広く愛された。弟子の生田花朝は、楯彦の作風を受け継ぐ一方で、豊かな色彩感覚により同時代の風俗も積極的に描き、軽やかでユーモラスな作品を多く残した。
この章では菅楯彦の《阪都四つ橋》(昭和21年 1946年、鳥取県立博物館蔵、前期) や、生田花朝の《天神祭》(昭和10年 1935年頃、大阪府立中之島図書館蔵、通期)、《だいがく》(昭和時代、大阪府立中之島図書館蔵、前期)が主な出品作だ。
菅楯彦《阪都四つ橋》(昭和21年 1946年、鳥取県立博物館蔵、前期)
生田花朝《天神祭》(昭和10年 1935年頃、大阪府立中之島図書館蔵、通期)
生田花朝《だいがく》(昭和時代、大阪府立中之島図書館蔵、前期)
続く第3章は「新たなる山水を描く―矢野橋村と新南画」。矢野橋村は、日本の風土に基づく日本南画をつくることを目標として、江戸時代より続く伝統的な文人画に近代的感覚を取り入れた革新的な「新南画」を積極的に推し進めた。もともと文人画や中国文化に対する素養のあった大阪では、新南画は容易に受け入れられたこともあり、近代大阪の日本画壇において重要な足跡を残した。矢野橋村の《那智奉拝》(昭和18年 1943年、大阪市立美術館蔵、通期)、《柳蔭書堂図》(大正8年 1919年、愛媛県美術館蔵、前期)などが並ぶ。
矢野橋村《那智奉拝》(昭和18年 1943年、大阪市立美術館蔵、通期)
矢野橋村《柳蔭書堂図》(大正8年 1919年、愛媛県美術館蔵、前期)
第4章は「文人画―街に息づく中国趣味」へ。江戸時代、都への玄関口にあたる大阪には様々な文物が集まり、煎茶をはじめとする中国趣味が栄え文人画が流行しました。大阪では、漢詩や漢文の教養を身に付けた市民が多かったこともあり、明治以降も文人画の人気が続き、西日本を中心に各地から文人画家が集まり優れた作品が多く生まれた。その一人、森琴石の《獨樂園図》(明治17年 1884年、西宮K氏コレクション、2月19日まで)、田能村直入の《花鳥図》(弘化4年 1847年、滋賀県立美術館蔵、前期)も注目される。
森琴石《獨樂園図》(明治17年 1884年、西宮K氏コレクション、2月19日まで)
田能村直入《花鳥図》(弘化4年 1847年、滋賀県立美術館蔵、前期)
第5章は「船場派―商家の床の間を飾る画」で、広く市民に受け入れられたのが、四条派の流れをくむ絵画「船場派」だ。船場派には二つの系譜がみられる。幕末・明治期に活躍した西山芳園・西山完瑛(かんえい)によって確立された西山派の系譜。もう一つは明治期に深田直城(ちょくじょう)により普及した系譜。いずれも京都の四条派とは異なり、スマートに描く大阪らしい作風で人気を博した。
ここでは 西山完瑛の《涼船図》(文久元年 1861年、前期)のほか、深田直城の《水辺芦雁・雪中船泊》(明治~昭和時代、関西大学図書館蔵、前期)、平井直水の《梅花孔雀図》(明治37年 1904年、大阪中之島美術館蔵、通期)などが出品されている。
西山完瑛《涼船図》(文久元年 1861年、前期)
深田直城《水辺芦雁・雪中船泊》(明治~昭和時代、関西大学図書館蔵、前期)
平井直水《梅花孔雀図》(明治37年 1904年、大阪中之島美術館蔵、通期)
最後の第6章は「新しい表現の探求と女性画家の飛躍」。明治時代以降、新聞社や出版社が多く集積した大阪には、全国から多くの画家たちが集まった。彼らは挿絵画家などとして勤務する一方で、展覧会に出品したり研究会に参加したりして活動した。また、大阪では江戸時代より女性画家が活躍していたことに加え、富裕層を中心に子女に教養として絵画を習わせる傾向が強く、多くの優れた女性画家が登場する。様々な経歴で集まった画家や女性画家の活躍により、大阪の日本画は新しい感性に基づく魅力的な表現が生まれた。
島成園の《祭りのよそおい》(大正2年 1913年、大阪中之島美術館蔵、通期)をはじめ、橋本花乃の《七夕》(昭和5~6年 1930~31年頃、 大阪中之島美術館蔵、通期)、 吉岡美枝の《店頭の初夏》(昭和14年 1939年、 大阪中之島美術館蔵、通期)、三露千鈴の《秋の一日》(大正15年 1926年、 大阪中之島美術館蔵、後期)など目白押しだ。
島成園《祭りのよそおい》(大正2年 1913年、大阪中之島美術館蔵、通期
左:橋本花乃《七夕》右隻(昭和5~6年 1930~31年頃、大阪中之島美術館蔵、通期)
右:橋本花乃《七夕》左隻(昭和5~6年 1930~31年頃、大阪中之島美術館蔵、通期)
吉岡美枝《店頭の初夏》(昭和14年 1939年、 大阪中之島美術館蔵、通期)
三露千鈴《秋の一日》(大正15年 1926年、 大阪中之島美術館蔵、後期)
さらに山口草平の《人形の楽屋》(大正後期~昭和初期、 大阪中之島美術館蔵、前期)や、中村貞以の《猫》(昭和23年 1948年、東京都現代美術館蔵、後期)も出品される。
左:山口草平《人形の楽屋》右隻(大正後期~昭和初期、 大阪中之島美術館蔵、前期)
右:山口草平《人形の楽屋》左隻(大正後期~昭和初期、 大阪中之島美術館蔵、前期)
中村貞以《猫》(昭和23年 1948年、東京都現代美術館蔵、後期)
昨春、京都国立近代美術館では、京・大坂の美術を通覧する初めての大規模な展覧会「サロン!雅と俗-京の大家と知られざる大坂画壇」が開催された。これまでその全容が紹介されることのなかった大坂画壇を、江戸時代から昭和時代までの代表作を一堂に集めていて、興味を引いた。
京都画壇に比べ、知られざる大阪の日本画壇について、今回の展覧会を企画した林野雅人・大阪中之島美術館主任学芸員は、図録の巻頭テキストで次のように言及している。
大阪画壇という呼称は、明治後期から昭和前期にかけては、大阪に集う画家たちを指す言葉として新聞や雑誌、評論などで散見されたが、第二次大戦後、大阪の日本画の地盤沈下とともに使われなくなっていったようだ。京都や東京の画壇の活動を意識した、大阪の画壇としての活動も大正から昭和のはじめにかけては確実にあったと言えるだろう。ただ本展では、あえて大阪画壇という言葉を使用しなかった。その理由は、近代の大阪画壇には洋画も含まれるためである。ゆえに大阪の日本画なのである。
京都府立堂本印象美術館の「音のハーモニー ―印象が奏でる風景―」
音楽を感じることができる多様な作品約70点
大正期から昭和期にかけて活躍した日本画家・堂本印象は、制作にあたり視覚だけではなく、音を作品に込めることも大切にしていた、という。後年には、抽象画の《交響》に代表されるように、音楽作品から着想を得たり、音楽的な要素を作品に取り入れるなどの表現も行っている。
堂本印象(1891-1975)は、京都生まれ。1919年に第一回帝展で初入選して以来、約60年にわたる画業において、常に日本画の限界を超えた最前線の表現に挑戦し続けた画家だ。生涯を通して風景、人物、花鳥、神仏など多様なモチーフを描きこなしたが、特に1950年代半ばからは日本画家による抽象画という今までに見られなかった前衛的な表現を国内外で次々と発表し、画壇に強烈な足跡を残している。
今回の展覧会では、大正時代の小唄にまつわる作品や、昭和時代初期の宗教画、戦後の抽象画など、初期から晩年までの音や音楽を感じることができる多様な作品約70点を展示している。 主な出品作(いずれも京都府立堂本印象美術館蔵)を取り上げる。チラシの表面を飾る《公子行絵巻》(大正14 年 1925年)は、桃の咲く唐の都を表現した一際華やかな作品だ。洛陽で栄華を誇る一人の貴公子が楼閣で風流に興じる様子を描く。楽器を奏でる女性を囲み歓談する様子や、楼閣には小鳥の姿も描かれている。
以下の作品は、すべて京都府立堂本印象美術館蔵
堂本印象《公子行絵巻》部分(大正14 年 1925年)
《交響》(昭和36年 1961年) は、交錯しているさまを黒色の線の濃淡と色彩のみで表現した印象の抽象画の代表作で、第4回新日展に出品している。「楽譜を私なりに解釈して、絵の中に私の交響曲を表現したい」とは、制作にあたっての印象の言葉である。《聖歌》(昭和44年 1969年)は、タイトル通り、花模様の中に楽譜を散りばめたリズム感あふれる作品だ。
堂本印象《交響》(昭和36年 1961年)
堂本印象《聖歌》(昭和44年 1969年)
また、昭和初期に手掛けた大分富貴寺の平安時代壁画の模写《薬師浄土(富貴寺本堂壁画)》(昭和5 年 1930年)や、楽器を奏でる《八部衆(下絵)大阪四天王寺宝塔内壁画 乾闥婆》(昭和14年 1939年)も音のある世界を描く。
堂本印象《薬師浄土(富貴寺本堂壁画)》部分(昭和5 年 1930年)
堂本印象《八部衆(下絵)大阪四天王寺宝塔内壁画 乾闥婆》(昭和14年 1939年)
このほか、京の旦那衆の間で流行った小唄を題材に、肉筆浮世絵風に描いた大正時代の《小唄十二月》(大正11 年 1922年)や、交響曲をイメージしてデザインしたまぼろしの酒瓶《デラックス多聞》(昭和46年 1971年)などが出品されている。
堂本印象《小唄十二月》部分(大正11 年 1922年)
堂本印象酒瓶《デラックス多聞》(昭和46年 1971年)