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アートへの招待25 ピカソと甲斐荘、同時代に生きた異才展
文化ジャーナリスト 白鳥正夫「青の時代」「バラ色の時代」「キュビズム」など多彩なピカソの表現の変遷をたどることができる「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展」が大阪の国立国際美術館で5月21日まで開催中だ。京都国立近代美術館では、革新的な日本画表現を世に問うた「開館60周年記念 甲斐荘楠音の全貌ー絵画、演劇、映画を越境する個性」が4月9日まで開かれている。20世紀最大の芸術家と称されるピカソは絵画にとどまらず彫刻や陶芸作品を遺したが、甲斐荘も大正期から昭和初期、日本画だけでなく衣裳・風俗考証家、映画や演劇などに越境して活躍した。同時代に生きた異能、異才ぶりを堪能できる2つの展覧会を取り上げる。
国立国際美術館の「ピカソとその時代 ベルリン国立ベルクグリューン美術館展
まだ見たことのないピカソ、35点が初公開
ドイツ、ベルリンにあるベルリン国立ベルクグリューン美術館は、パブロ・ピカソ(1881~1973)の生涯に渡る作品をはじめとする20世紀を代表する巨匠らの作品を数多く所蔵している。開館以来、主要作品がまとめて国外に貸し出されるのは今回が最初で、改修を機に実現した。出品97点のうち76点が日本初公開。しかも半数がピカソの作品で35点は日本初公開という。さらに日本の国立美術館の所蔵・寄託作品11点を加えた合計108点で構成されている。東京の国立西洋美術館からの巡回で、大阪展は最終回場だ。
ベルクグリューン美術館は、ドイツ生まれの美術商ハインツ・ベルクグリューン(1914-2007年)のコレクションを収蔵展示する美術館として1996年に開館し、ベルリン国立美術館群の一翼を担っている。
ベルクグリューンは、1948年からパリで画廊を経営しながら、晩年まで作品の購入と売却を続けながらコレクションに際立った特色を持たせることに努め、類い稀なる審美眼と情熱によって厳選された世界有数の個人コレクションを作りあげた。1996年以後、生まれ故郷であるベルリンのシャルロッテンブルク宮殿に面した建物の中で公開していたが、2000年に主要作品をドイツ政府が購入し、2004年にベルクグリューン美術館と改称した。
最終的には、最も敬愛したピカソをはじめ、同時代のパウル・クレー、アンリ・マティス、アルベルト・ジャコメッティの作品に重点を置いた。この4人に彼らが共通して師と仰いだモダンアートの祖、ポール・セザンヌも加えた、粒選りの作品からなるコレクションは、創造性と生命力にあふれた20世紀の巨匠たちの芸術を集約している。
プレスリリースを参考に、展示構成と章ごとの主な作品を紹介する。まず序章は「ベルクグリューンと芸術家たち」で、初めて入手した記念すべきピカソ作品は、ピカソと親交のあった詩人ポール・エリュアールから譲り受けた《眠る男》。もう1点はマティス自身によるベルクグリューン画廊の展覧会ポスター原案。切り紙絵だけで構成されたマティスの最初の展覧会だった。
1章は「セザンヌ:近代芸術家たちの師」。ピカソらが大きな影響を受けたのが、セザンヌだった。ベルクグリューンが最後に手元に残したのは、「豊穣で、…渋味があり、…はっとするほど現代的な」《セザンヌ夫人の肖像》と、最晩年の水彩《庭師ヴァリエの肖像》など選び抜かれた数点だ。セザンヌの《セザンヌ夫人の肖像》(1885-86年頃、ベルリン国立ベルクグリューン美術館、ベルクグリューン家より寄託)は日本初公開だ。
2章は「ピカソとブラック:新しい造形言語の創造」で、生涯にわたりスタイルの変貌に挑み続けたピカソは、ジョルジュ・ブラックとの緊密な対話を通じて、作品と現実との間に新しい関係を開いたキュビスムの造形は、20世紀の美術に最も重要な刷新をもたらした。「青の時代」から第一次世界大戦後までのピカソ芸術の変遷を辿っている。ピカソの《座るアルルカン》(1905年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館)も日本初公開。《丘の上の集落(オルタ・デ・エブロ)》(1909年 、ベルリン国立ベルクグリューン美術館、ベルクグリューン家より寄託)も展示されている。
3章は「両大戦間のピカソ:古典主義とその破壊」。ピカソはいち早く古典主義への傾斜を見せ、古代彫刻や古典絵画に着想を得た明朗な人物像を多く描いた。しかし1920年代後半からは、シュルレアリスムとの接触に刺激を受け、著しく変形した人間のイメージが彼の作品に現れます。古代神話の世界も、人間の欲望や愛憎を映し出す題材へ。
ここでは、《座って足を拭く裸婦》(1921年)、《踊るシレノス》(1933年)、初公開の《窓辺の静物、サン=ラファエル》(1919年)のほか、《彫刻家と彼の肖像》(1933年)、《雄鶏》(1938年)、《サーカスの馬》(1937年)、《ミノタウロマキア》(1935年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)なども展示。
3章の展示風景より。パブロ・ピカソの右が《座って足を拭く裸婦》(1921年)と、左が《踊るシレノス》(1933年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)
パブロ・ピカソの左が《窓辺の静物、サン=ラファエル》と、右が《彫刻家と彼の肖像》(1933年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)
右からパブロ・ピカソの《雄鶏》(1938年)、《サーカスの馬》(1937年)、《ミノタウロマキア》(1935年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)の展示
4章は「両大戦間のピカソ: 女性のイメージ」で、ピカソは終生、自身を取り巻く女性たちを描き続けた。そこには芸術家とモデルの関係を超えた、様々な個人的感情が反映されている。1930年代後半から第二次世界大戦期にかけて描かれたピカソの多様な女性像が並ぶ。《緑色のマニキュアをつけたドラ・マール》(1936年)、《黄色のセーター》(1939年)、《多色の帽子を被った女の頭部》(1939年)、《女の肖像》(1940年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)など壮観だ。
4章の展示風景より。パブロ・ピカソの右が《緑色のマニキュアをつけたドラ・マール》(1936年)、《女の肖像》(1940年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)
右からパブロ・ピカソの《黄色のセーター》(1939年)、《多色の帽子を被った女の頭部》(1939年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)
5章では「クレーの宇宙」に移る。ベルクグリューンにとって、クレーは深い共感を覚える画家だった。造形的な考察とロマン主義的な想像力が融合したクレーの芸術は、機知と詩情に溢れた豊かな宇宙を成している。第一次世界大戦の終わりから、バウハウス時代にかけての作品を中心に34点が出品されている。
キュビスムの影響や、生命の源泉であるエロスの象徴としての女性像などが展示されている。クレーの《中国の磁器》(1923年、日本初公開)や《子どもの遊び》(1939年)、《口数の少ない倹約家》(1924年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)なども注目だ。
パウル・クレー《中国の磁器》(1923年、 ベルリン国立ベルクグリューン美術館)©Museum Berggruen ‐ Nationalgalerie, SMB / bpk / Jens Ziehe
パウル・クレー《子どもの遊び》(1939年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館)©Museum Berggruen ‐ Nationalgalerie, SMB / bpk / Jens Ziehe
パウル・クレー《口数の少ない倹約家》(1924年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館)
6章は「マティス:安息と活力」で、ピカソと並ぶ20世紀の巨匠マティスの油彩・素描・彫刻と、躍動感に溢れる1940年代の希少な切り紙絵も出品されている。《雑誌『ヴェルヴ』第4巻13号の表紙図案》(1943年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館、ベルクグリューン家より寄託)と、《青いポートフォリオ》(1945年)、《家に住まう沈黙》(1947年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)などが並ぶ。
アンリ・マティス《雑誌『ヴェルヴ』第4巻13号の表紙図案》(1943年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館、ベルクグリューン家より寄託)©Private Collection, on loan to Museum Berggruen ‐ Nationalgalerie, Staatliche Museen zu Berlin / bpk /Jens Ziehe
アンリ・マティス《青いポートフォリオ》(1945年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館)©Museum Berggruen ‐ Nationalgalerie, SMB / bpk /Jens Ziehe
アンリ・マティス《家に住まう沈黙》(1947年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館)
7章は「空間の中の人物像: 第二次大戦後のピカソ、マティス、ジャコメッティ」。人物像をテーマとした第二次大戦後のピカソ、マティス、ジャコメッティの作品を一堂に展示。ベルクグリューンが敬愛した20世紀の芸術家たちによる人間像は、開放的な空間の中で存在感と生命力を放ち、時代を超えて人々の心を動かす。
最後を締めくくるこの章では、ピカソの《闘牛士と裸婦》(1970年 )と、マティス《縄跳びをする青い裸婦》(1952年)は日本初公開。ジャコメッティの《ヴェネツィアの女 Ⅳ》(1956年)、《広場 Ⅱ》(1948-49年、いずれもベルリン国立ベルクグリューン美術館)、ピカソの《男と女》(1969年、NMWA[梅原龍三郎氏より寄贈])など注目作品が出品されている。
7章の展示風景より。パブロ・ピカソの右が《闘牛士と裸婦》(1970年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館)、左が《男と女》(1969年、NMWA[梅原龍三郎氏より寄贈])
アンリ・マティス《縄跳びをする青い裸婦》(1952年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館)©Museum Berggruen ‐ Nationalgalerie, SMB / bpk /Jens Ziehe
アルベルト・ジャコメッティ《ヴェネツィアの女 Ⅳ》(1956年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館)©Museum Berggruen ‐ Nationalgalerie, SMB / bpk / Jens Ziehe
アルベルト・ジャコメッティ《広場 Ⅱ》(1948-49年、ベルリン国立ベルクグリューン美術館)
京都国立近代美術館の「開館60周年記念 甲斐荘楠音の全貌ー絵画、演劇、映画を越境する個性」
まだ2度目の回顧展、多面的な表現者の実像追う
大正期から昭和期にかけて、日本画をはじめ映画の領域で活動を展開した甲斐荘楠音(かいのしょう ただおと、1894~1978)の生涯にわたる創作の全貌を回顧する特別展だ。7月1日から8月27日まで、東京ステーションギャラリーに巡回する。
楠音は理想美を描きだすのではなく、美しさと醜さが入り混じる人間の生々しさを巧みに描写し、戦前の日本画壇で高い評価を得た。革新的な日本画表現を世に問うた美術団体「国画創作協会」の会員としても知られている。しかし1940年代初頭に画業を中断すると、映画業界に転身、時代劇の衣裳・風俗考証などを手がけるようになった。
1970年代半ばから再評価の機運が高まり、没後20年を経た1997年に回顧展が開催された。そこで日本画家としての活動の全貌が初めて紹介され、同時に「京都画壇の異才」という定評を得た。四半世紀経た二度目の回顧展では、日本画家という枠組みに収まりきらない楠音の「越境性」に焦点を当てている。
今回の展覧会には絵画のほか、写真、映像、映画衣裳、ポスター、そしてスクラップブックや写生帖など資料のすべてを展示し、異色の日本画家から「複雑かつ多面的な個性をもつ表現者」としての甲斐荘の全貌に迫る。
序章の展示風景より。甲斐荘楠音の絵画作品が並ぶ
楠音は、幼少期より歌舞伎などの観劇を愛好し、自ら女形として舞台にも立った趣味人であり、また古今の服飾にまつわる見識を活かし、溝口健二といった映画監督を支える風俗考証家でもあった。
会場は5章で構成。こちらも章ごとの概要と主な展示品を掲載する。序章「描く人」は、楠音が24歳で「国画創作協会」に出品し、脚光を浴びるきっかけとなった《横櫛》(1916頃、京都国立近代美術館)をはじめとする絵画の代表作が並ぶ。間の匂いや温度までもとらえようと考えていたからこそ、その絵からは「生々しさ」や、ある種の「怪しさ」が漂っている。
甲斐荘楠音《横櫛》(1916頃、京都国立近代美術館)
ここでは、《秋心》(1917年)や、《幻覚(踊る女)》(1920頃)、《娘子》(1927年、いずれも京都国立近代美術館)などが展示されている。
甲斐荘楠音《秋心》(1917年、京都国立近代美術館)
甲斐荘楠音《幻覚(踊る女)》(1920頃、京都国立近代美術館)
甲斐荘楠音《娘子》(1927年、京都国立近代美術館)
第1章は「こだわる人」。楠音のひとつの特徴として、似たようなポーズの人物像を繰り返し描いた。しかしスケッチ類から変化や動作に対する探究心の高さがうかがえる。楠音は裸を「肌香」と言い表しており、形だけではなく、香りや動きまでも捉えようとしていたらしい。
《籐椅子に凭れる女》(1931頃、京都国立近代美術館)や、《春》(1929頃、メトロポリタン美術館)に加え、ガラス乾板からプリントした「歌妓のポーズをとる友人」(京都国立近代美術館)も出品されている。
甲斐荘楠音《籐椅子に凭れる女》(1931頃、京都国立近代美術館)
甲斐荘楠音《春》(1929年、メトロポリタン美術館)Purchase, Brooke Russell Astor Bequest and Mary Livingston Griggs and Mary Griggs Burke Foundation Fund, 2019 / 2019.366
「歌妓のポーズをとる楠音」(京都国立近代美術館)
第2章「演じる人」では、自ら太夫や女形に扮した楠音の写真も見ることができる。幼少から歌舞伎の観劇を好んだ楠音は芝居には特別な関心を抱いていた。《道行》(1924年、京都国立近代美術館)を描けば、「道行の女性に扮する甲斐荘楠音」、「太夫に扮する甲斐荘楠音」のようなプリントもあり、興味を引く。
甲斐荘楠音《道行》(1924年、京都国立近代美術館)
「道行の女性に扮する甲斐荘楠音」(京都国立近代美術館)
「太夫に扮する甲斐荘楠音」(京都国立近代美術館)
楠音は日本画から映画の世界へと転身するが、その背景には国画創作協会の解散(1928年)や、その後に参加した新樹社の解消(1931年)がある。楠音は服飾に関する知識の高さから、時代劇の衣裳・風俗考証を手がけるなど、そのセンスを映画の世界においても発揮していった。
第3章の「越境する人」では、京都・太秦の東映京都撮影所が所蔵する衣裳が一挙に展示。市川右太衛門の演じた『旗本退屈男 謎の大文字』をはじめ、『丹下左膳』、『元禄忠臣蔵』の衣裳がポスターなど関連資料も併せての展示で、美術館でこれほどまとまった数が並ぶのは初めてだろう。
市川右太衛門が演じた『旗本退屈男 謎の大文字』の衣装などの展示
終章は「数奇な人」。楠音は映画人として活躍する間も、絵画への思いは続いていた。青年期から晩年まで制作し続けたことは、《虹のかけ橋(七妍)》(1915〜76年、京都国立近代美術館)の制作年の長さからもわかる。未完の大作《畜生塚》(1915頃、京都国立近代美術館)は、横5.7メートル、八曲一隻におよび、大部分が塗り残されたままだ。
《虹のかけ橋(七妍)》(1915〜76、京都国立近代美術館)
《畜生塚》(1915頃、京都国立近代美術館)
会場には所狭しと、草稿やスケッチ、さらに膨大なスクラップブックなども展示されていて、丹念に見るには相当の時間を要する。主催者は「俳優が様々な役柄を演じ分けるように、多彩な顔をもった甲斐荘という一つの個性は、現代を生きる我々に少なからぬ示唆を与えてくれることでしょう」と、コメントしている。
膨大なスクラップブックなどの展示