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アートへの招待35 日本画と洋画、注目すべき企画展

文化ジャーナリスト 白鳥正夫

美術の秋、日本画と洋画の注目すべき企画展が京都と東京で展開中だ。「京都市美術館開館90周年記念展  竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー」が、京都市京セラ美術館で12月3日まで、開館60周年記念「京都画壇の青春―栖鳳、松園につづく新世代たち」が、京都国立近代美術館で12月10日まで開かれている。一方、東京ステーションギャラリーでは、春陽会誕生100年「それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ」が、11月12日まで開催中だ。日本画と洋画という絵画表現が、それぞれに研鑽し、発展してきた経緯を理解する上で、格好の展覧会だ。

京都市京セラ美術館本館 南回廊1階の「京都市美術館開館90周年記念展  竹内栖鳳 破壊と創生のエネルギー」

若手時代から円熟期まで約130点の大回顧展

 近代の京都画壇でもっとも大きな影響を与えた画家・竹内栖鳳が探求し続けた新たな日本画をテーマにした大規模回顧展だ。若手時代から円熟期まで代表作約130点を一堂に集めるとともに、本画に加え制作にまつわる写生や下絵、古画の模写など、様々な資料も合わせて展示し、栖鳳の画業を振り返る。

 竹内栖鳳(1864-1942)は江戸幕府の末期、京都の川魚料理屋「亀政」の一人息子として生まれる。本名恒吉。17歳の頃、四条派の幸野楳嶺に師事し門下の四天王の一人に数えられる。1900年、パリ万博視察に渡欧した。文部省美術展覧会(文展)開設当初から活躍、大正期には帝室技芸員、帝国芸術院会員となり、二度中国にも赴く。

西洋画を含め諸派の表現を融合し京都日本画の近代化を牽引するとともに、写生にもとづく自然への視点、 省筆の鮮やかさに独自の境地を拓いた。京都市立絵画専門学校、画塾竹杖会などで、上村松園や土田麦僊をはじめ多くの画家を育てた。第1回文化勲章を受章している。

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71歳頃の竹内栖鳳(昭和10年頃、東山・高台寺の自邸にて)

栖鳳の大規模個展が京都で行われるのは、2013年に京都市美術館で開催されて以来10年ぶりだ。今回の展覧会には、京都市美術館所蔵の重要文化財《絵になる最初》をはじめ、新発見の《羅馬遺跡図》も初公開。これまであまり注目されてこなかった、栖鳳の青年期作品にも焦点が当てられている。若い頃に感じた苦悩や新表現への執念、受けた批判などを作品とともに振り返り、「大御所栖鳳」が生まれるまでの人生をドラマティックにたどっている。

展示は年代順に6章構成。章ごとに概要と主な作品を画像とともに取り上げる。展示は前期(~11月5日)、後期(11月7日~)に分かれて作品が入れ替わる。

第1章は「栖鳳登場 京都画壇の麒麟児」。幸野楳嶺に弟子入りして画業を始めた栖鳳。四条派の画法を着実に学ぶとともに、雪舟や相阿弥といった室町水墨画や、円山応挙など江戸絵画の模写を通じ古画学習し絵かきの道へ。若い頃より才を発揮し、画壇にて鮮やかなデビューを果たす。初期の作品《観花》(1897年、海の見える杜美術館蔵、後期)は面白い構図だ。

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竹内栖鳳《観花》(1897年、海の見える杜美術館蔵、後期)

第2章は「栖鳳、世界へ まだ見ぬ美術を求めて」で、1900(明治33)年、ヨーロッパへの渡航。西洋画の描き方を参照して日本画の革新を目指した栖鳳の作品が注目される。実際に見た西洋の風景を反映させ、叙情的に描いた《ベニスの月》(1904年、髙島屋史料館蔵、前期)や、ローマの遺跡を描いたとされる新発見で初公開の《羅馬遺跡図》(1903年、通期)などが出品されている。

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竹内栖鳳《ベニスの月》(1904年、髙島屋史料館蔵、前期)

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竹内栖鳳《羅馬遺跡図》左図(1903年、通期)

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竹内栖鳳《羅馬遺跡図》右図(1903年、海の見える杜美術館蔵、通期)

第3章は「日本画は一度破壊すべし 新しい時代へ」。文展が始まり、京都画壇の代表として出品を重ねた時代。将来の美術はどうあるべきか。模索のなか、日本画の破壊と創生へ舵を切る。

第3回文展に出品された《アレ夕立に》(1909年、髙島屋史料館蔵、前期)は、栖鳳が初めて本格的に取り組んだ人物画。重要文化財の《絵になる最初》(1913年、京都市美術館蔵、後期)は、モデルとなる女性が着衣を脱ぐことを恥じらう表情に画想を得たもので、新しい画題の中に斬新な意匠と情緒の表現を両立させた画期的な作品である。

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竹内栖鳳《アレ夕立に》(1909年、髙島屋史料館蔵、前期)

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竹内栖鳳 重要文化財《絵になる最初》(1913年、京都市美術館蔵、後期)

第4章の「躍動する写生」では、対象を徹底して見つめ、決まった型を脱却し、新鮮で生き生きとした筆づかいがうかがえる作品が並ぶ。《蹴合》(1926年、通期)は、2羽の軍鶏が飛び上がり、互いを攻撃する瞬間の動きを素早い筆致でとらえたもの。

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竹内栖鳳《蹴合》(1926年、通期)

続く第5章は「栖鳳、旅に出る 心の風景を探して」で、中国や、潮来、湯河原など、心に刻んだ光景を絵にした。生涯をかけて新たな日本画の表現を探求し続けている。

最後の第6章は「生き物たちの賛歌」。卓越した写生から、動物を描いてはにおいまで表すと評された栖鳳。身近な動物こそ、彼の十八番だった。《清閑》(1935年頃、京都市美術館蔵、通期)や、《夏鹿》右図(1936年、MOA美術館蔵、通期)などが出品されている。

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竹内栖鳳《清閑》(1935年頃、京都市美術館蔵、通期)

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竹内栖鳳《夏鹿》右図(1936年、MOA美術館蔵、通期)

京都国立近代美術館の開館60周年記念「京都画壇の青春―栖鳳、松園につづく新世代たち」

新進気鋭の土田麦僊を中心に意欲作約100点

こちらも開館記念展で、「京都画壇」がテーマだ。京都の明治以降の美術界の歴史は、東京や西欧との対峙の歴史でもあった。とりわけ明治末~昭和初期を近代京都画壇の青春時代ととらえ、竹内栖鳳、上村松園に続く、まさに青春時代と重なった京都画壇の新世代たちに焦点をあてた企画展だ。青春時代特有の過剰さと繊細さとを併せもつ、完成期とは異なる魅力を放つ多様な作品が注目される。

当時の京都画壇は、前記展で取り上げた竹内栖鳳の新たな日本画表現の影響を受け、上村松園、菊池契月、木島桜谷らを先輩に、土田麦僊を中心に、小野竹喬、榊原紫峰、岡本神草ら気鋭の画家らが一丸となり、東京や西欧、そして京都の伝統に挑んだ。展覧会には、円熟期の栖鳳を含む気鋭の画家の代表作約100点が展示される。

今回の展覧会のキャプションでは、各作品に作者名とタイトル、画材と制作年とともに、作者の年齢が特記されている。もう一つ、今回は重厚な図録ではなく、小冊子(900円)で提供している。展示は4章立て。章ごとに主な作品を画像とともに紹介する。前期(~11月12日)と後期(11月14日~)展示替えがある。

第1章は「個性を探す」。明治40年、初めて文展が開催され、展覧会時代が始まる。ヨーロッパから帰朝した画家たちは「個性」を唱え、京都画壇の若手たちは、モティーフに、画材に、描法に試行錯誤を繰り返した。

土田麦僊の《罰》(1908年、京都国立近代美術館蔵、通期)は、新潟での子供時代を思い出して描いた作品で、文展初出品で三等賞を射止めている。同じく麦僊の《海女》(1913年、京都国立近代美術館蔵、通期)は、日本画材を塗りたくったり削ったりした痕跡が見られる。他に小野竹喬の《落照》(1908年、笠岡市立竹喬美術館蔵、通期)などが出品されている。

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土田麦僊《罰》(1908年、京都国立近代美術館蔵、通期)

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土田麦僊《島の女》(1912年、東京国立近代美術館蔵、通期)

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小野竹喬《落照》(1908年、笠岡市立竹喬美術館蔵、通期)

第2章は「自由を求める」では、個性を解放した作品を自由に発表できる場を求め、麦僊は竹喬や村上華岳らと国画創作協会を設立し、活動する。野長瀬晩花の《初夏の流》(1918年、京都市美術館蔵、前期)、岡本神草の《口紅》(1918年、京都市立芸術大学芸術資料館蔵、通期)など意欲作が並ぶ。師匠格の竹内栖鳳の《日稼》(1917年、東京国立近代美術館蔵、通期)や、先輩格の上村松園の《舞仕度》(1914年、京都国立近代美術館蔵、通期)も展示されている。

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野長瀬晩花《初夏の流》(1918年、京都市美術館蔵、前期)

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岡本神草《口紅》(1918年、京都市立芸術大学芸術資料館蔵、通期)

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竹内栖鳳《日稼》(1917年、東京国立近代美術館蔵、通期)

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上村松園《舞仕度》(1914年、京都国立近代美術館蔵、通期)

第3章は「それぞれのLIFE」。文展は幕を閉じ、新たに帝国美術院展覧会(帝展)として再出発した。こちらでは新顔や文展とは異なる作風の作品を出品したベテランが入選し、創作の自由が広がる。岡本神草の《拳を打てる三人の舞妓の習作》(1920年、京都国立近代美術館蔵、通期)が目を引く。

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岡本神草《拳を打てる三人の舞妓の習作》(1920年、京都国立近代美術館蔵、通期)

 第4章は「自らを見つめる」で、渡欧した麦僊らは日本画材では西欧写実に太刀打ちできないことを確認するとともに、最後にたどりついたのは自らの足元にあった日本の古典、風俗、風景、日本画材であった。

チラシの表面を飾る麦僊の《舞妓林泉》(1924年、東京国立近代美術館、通期)や、《大原女》(1927年、京都国立近代美術館蔵、通期)は、日本の伝統を見直した象徴的な作品だ。

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土田麦僊《舞妓林泉》(1924年、東京国立近代美術館、通期)

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土田麦僊《大原女》(1927年、京都国立近代美術館蔵、通期)

東京ステーションギャラリーの「春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ」

自由な団体、「各人主義」の100点を超す作品

日本画の革新をめざした京都画壇と同じように、日本美術院の洋画部を脱退した画家たちを中心に、新進気鋭の画家たちが加わって構成されたのが「春陽会」だ。この企画展は創立から1950年代までの葛藤に満ちた展開を100点以上の作品で辿る。

春陽会は帝国美術院、二科会に拮抗する第3の洋画団体として発足し、1923年に第1回展が開催され、現在も活発に活動を続ける美術団体である。彼らは同じ芸術主義をもつ画家たちの集団であろうとはせず、それぞれの画家たちの個性を尊重する「各人主義」を重要視した。

また、春陽会の展覧会には油彩だけではなく、版画や水墨画、さらには新聞挿絵の原画などが形式にとらわれずに出品された。春陽会では画家たちが互いの作品を批評しながら研鑽を積み、次世代育成をも念頭に基盤を固めていった。出品作品のなかに、自らの内面にある風土(土着)的なもの、日本的ないしは東洋的なものを表現しようとする傾向が早くからみられたことは、土田麦僊らが設立した国画創作協会(1928年解散)にも共通する。

この展覧会は、第1章「始動:第3の洋画団体誕生」、第2章「展開:それぞれの日本、それぞれの道」、第3章「独創:不穏のなかで」、第4章「展望:巨星たちと新たなる流れ」の4章立てとなっているが、見どころに沿って、主な作品を画像とともに取り上げる。

まず見どころの第一が、春陽会で活躍した豪華な面々の作品が揃っている点だ。東京ステーションギャラリーで過去に回顧展を開催したことのある岸田劉生、木村荘八、河野通勢をはじめ、その名を冠した美術館をもつ小杉放菴、三岸好太郎、後に文化勲章を受章した梅原龍三郎、中川一政、岡鹿之助、さらにはフランス画壇でも評価された長谷川潔ら日本近代美術のお馴染みの画家の作品が展示室を彩っている。

小杉放菴の《母子採果》(1926年頃、小杉放菴記念日光美術館蔵)や、河野通勢の《芝居図》(1923年、府中市美術館蔵)らの作品も見逃せない。

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小杉放菴《母子採果》(1926年頃、小杉放菴記念日光美術館蔵)

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河野通勢《芝居図》(1923年、府中市美術館蔵)

第二に、えり抜きの展示内容になっている。研究者を交えた春陽会関係者と開催館学芸員らが2020年度から毎月のように集まり、作品をセレクトしたという。 春陽会の第1回展からの出品作を多く含む50名近い画家たちによる良質な作品が、約50カ所の所蔵先から集まった。

長谷川潔の《アレキサンドル三世橋とフランス飛行船》(1930年、碧南市藤井達吉現代美術館蔵)や、萬鐵五郎の《羅布かづく人》(1925年、岩手県立美術館蔵)などが出品されている。

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長谷川潔《アレキサンドル三世橋とフランスの飛行船》(1930年、碧南市藤井達吉現代美術館蔵)

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萬鐵五郎《羅布かづく人》(1925年、岩手県立美術館蔵)

第三は、岸田劉生が目指した「美」の11点が出揃った。春陽会設立から第3回展まで、劉生が春陽会に所属していた時期の作品で、油彩では三味線を弾く麗子像の《麗子弾絃図》(1923年、京都国立近代美術館蔵)や、《竹籠含春》(1923年、個人蔵)、日本画では寒山拾得図と二人の麗子像も鑑賞できる。

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岸田劉生《麗子弾絃図》(1923年、京都国立近代美術館蔵)

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岸田劉生《竹籠含春》(1923年、個人蔵)

第四に、木村荘八の代表作も多数並ぶ。永井荷風の『濹東綺譚』挿絵(原画)などの代表作に加え、《私のラバさん》(1934年、愛知県美術館蔵)や、《銀座みゆき通り》(1958年、東京ステーションギャラリー蔵)など。

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木村荘八《私のラバさん》(1934年、愛知県美術館蔵)

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木村荘八《銀座みゆき通り》(1958年、東京ステーションギャラリー蔵)

第五は、春陽会の顔、中川一政と岡鹿之助の作品も多数展示されている。中川一政の作品は、第1回展の頃の草土社風の静物画、大衆に親しまれた《尾﨑士郎著『人生劇場』20 原画》(1939年、真鶴町立中川一政美術館)や、細かい筆触で風景や花などを描き、若い画家たちに強い影響を与えた岡鹿之助の油彩《山麓》(1957年、京都国立近代美術館蔵)も注目だ。

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中川一政《尾﨑士郎著『人生劇場』20 原画》(1939年、真鶴町立中川一政美術館)

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岡鹿之助《山麓》(1957年、京都国立近代美術館蔵)

文化ジャーナリスト。ジャーナリズム研究関西の会会員。平山郁夫美術館企画展コーディネーター・民族藝術学会会員。 1944年8月14日生まれ 愛媛県新居浜市出身。中央大学法学部卒業後、1970年に朝日新聞社入社。広島・和歌山両支局で記者、大阪本社整理部員。鳥取・金沢両支局長から本社企画部次長に転じ、1996年から2004年まで企画委員を努める。この間、戦後50年企画、朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」などに携わる。 著書に『シルクロード 現代日本人列伝』『ベトナム絹絵を蘇らせた日本人』『無常のわかる年代の、あなたへ』『夢追いびとのための不安と決断』『「大人の旅」心得帖』『「文化」は生きる「力」だ!』(いずれも三五館)『夢をつむぐ人々』『夢しごと 三蔵法師を伝えて』(いずれも東方出版)『アート鑑賞の玉手箱』『アートの舞台裏へ』『アートへの招待状』(いずれも梧桐書院)など多数。