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アートへの招待59 小磯良平の名作《日本髪の娘》が約90年ぶり里帰り
文化ジャーナリスト 白鳥正夫気品と静けさを湛えた女性像で知られる日本を代表する洋画家・小磯良平の幻の作品と考えられていた名作《日本髪の娘》(1935年、韓国国立中央博物館蔵)が約90年ぶりに日本で公開されている。神戸市立小磯記念美術館では、幻の名作を含む小磯の名品を紹介する展覧会「小磯良平展――幻の名作《日本髪の娘》」を3月22日まで開催中だ。本展では、この小磯の不朽の名作と合わせて、小磯記念美術館が所蔵する小磯作品約100点をまとめて紹介する。小磯の画業をたどる上で欠かすことのできない名作を公開し、小磯良平がたゆまず追い求めた日本人の油彩画の精髄を迫ることができる貴重な機会といえよう。
「小磯良 平展――幻の名作《日本髪の娘》」のポスターデータ
展覧会の大看板
神戸市立小磯記念美術館の入口
32歳の小磯がアトリエで描いた名作
1935年に出品されて以来里帰り公開
《日本髪の娘》は、モダンなデザインの訪問着をまとい、日本髪の鬘をつけて礼装した神戸の令嬢を描いた作品。当時32歳であった小磯は「日本の着物姿を描きたい」と考えていた、大阪の百貨店・髙島屋が開催した展示即売会「第五十三回秋の百選会」に出品されていた「流線美式天象」という訪問着の逸品だった。小磯は、高価なこの着物を一目で気に入り買い求めたそうだ。この瞬間に小磯には絵のイメージが出来上がっていたかもしれない。
この作品は、神戸の山本通にあった戦前の小磯のアトリエで描かれ、1935年の「第一回第二部会展」に出品されて注目を集めた。時をおかず、ソウルにあった李王家美術館(現・国立現代美術館別館 徳寿宮館)が購入。海を渡ったところまでは分かっているが、それ以降、小磯自身も含め日本では、その消息がはっきりせず、日本側にとっては「幻の作品」と考えられていた。
プレス内覧
2008年韓国国立中央博物館で李王家美術館の洋画コレクションを展示する特別展「日本近代西洋画」が開催され、そこで当時小磯記念美術館の学芸員だった廣田生馬さん(現:神戸市立博物館学芸課長)が講演を行った。この展覧会開催について日本のメディアにも発表され、日本の立場からすれば《日本髪の娘》再発見ということになり新聞紙上でも大きく報じられた。
神戸市立小磯記念美術館ではそれ以降、《日本髪の娘》里帰り展示を念願していた。2024年に岡泰正館長と多田羅珠希学芸員が韓国国立中央博物館を訪れ、《日本髪の娘》を実見し、韓国国立中央博物館の方々と話し合いを進めて今回神戸への里帰りが実現した。
絵和描く小磯良平
小磯良平(1903~88)は、兵庫県神戸市の貿易商を営む家に生まれる。1922(大正11)東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、藤島武二に師事。在学中の1925年、第6回帝展に初入選。翌年の第7回帝展では特選を受賞し、注目を集める。1928(昭和3)年から2年間、フランスへ留学。1935年、文部省による帝展改組に反旗を掲げ、猪熊弦一郎らと新制作派協会(のちに新制作協会に改称)を結成し、以後は同展で作品の発表を続けた。
1953年、東京藝術大学教授に就任し、1971年まで後進の教育にも力を尽くす。1974年、迎賓館赤坂離宮の壁画制作を担当。西洋絵画の古典技法を学び、卓抜した描写力と理知的な画面構成により、清楚でモダンな女性像を追求した。
この間、小磯は1942年、《娘子関を征く》で第1回 帝国芸術院賞受賞、1979年に文化功労者、1982年 に日本芸術院会員、1983年 には文化勲章を受章している。近代日本洋画界を代表する洋画家となるが、阪神間に住まう者にとっては、身近な画家ともいえる。神戸で生まれ生涯のほとんどを神戸で過ごし、住吉山手にある邸宅にはどこも小磯の作品が飾られていた。
美術館復原に復元されたアトリエ
兵庫県立美術館には、「小磯良平記念室」があり、常時20点ほどの小磯作品を観ることができる。
神戸市立小磯記念美術館は1992年、六甲アイランドに開館。小磯良平が1988年12月に世を去った翌年、自宅に遺されていた油彩、デッサン、版画、挿絵原画など約2000点の作品、アトリエ及びのその遺品と、アトリエや蔵書、諸資料と共に、遺族より神戸市に寄贈された。神戸市は小磯良平の偉業を顕彰し、作品の収集、保存、調査研究、普及活動を行っている。
同館では現在、油彩・素描・版画など約3000点を入れ替え展示し、作品の解説を行うハイビジョンギャラリーも設置。小磯芸術を心ゆくまで楽しむことができる。また、美術館の中庭には小磯良平が40年間使ったアトリエを移築、復元している。
李王家美術館は、1935年から1945年まで日本の近代美術品を収集し、その後に韓国国立中央博物館へ日本近代西洋画40点移管されている。李王家美術館収集の日本近代西洋画は、東京美術学校長を経て帝国美術院長となった正木直彦と西洋画家で東京美術学校校長の和田英作の推薦を基に李王家の英親王が選定されたという。図録には李王家美術館近代洋画作品リストも掲載されていて、所在不明の作品もある。
小磯の画業や「和装婦人」など3章構成
《日本髪の娘》が描かれた時次代背景追う
展示は3章で構成されている。章ごとの内容と、主な作品を取り上げる。
第1章は、「小磯良平の画業」。小磯は、旧三田藩家臣の家で貿易商を営む岸上家に生まれた。クリスチャンの家庭で外国人の生活様式を取り入れた中で育ったそうだ。おとなしく絵が得意で、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、藤島武二教室に学ぶ。在学中に父を亡くし、小磯家の養子となり「小磯良平」となる。1926年に《T嬢の像》(兵庫県立美術館蔵)で帝展特選となり、首席で卒業し、1928年渡仏。帰国後1932年の《裁縫女》(東京藝術大学蔵)でも特選となり、政府買い上げとなった。
小磯良平《青衣の女》(1929年、神戸市立小磯記念美術館蔵)
小磯良平《踊り子》(1940年頃 、神戸市立小磯記念美術館蔵)
1935年の「帝展改組」を経て、戦時中は「作戦記録画」を制作した。戦後は抽象的な表現の模索も試み、古典的な表現で迎賓館赤坂離宮の壁画《絵画》《音楽》を制作、母校の東京藝術大学で後進の指導にもあたる。とりわけデッサンが抜群にうまい!小磯が描く女性像は「神戸のハイカラさを具現化したような清楚で気品あふれる女性像」と評された。
小磯は大戦でアトリエと多くの作品を失うが、戦後も次々に新しい表現を模索することで、具象絵画の雄であり続けた。この章は、 小磯の専門館ならではの切り口で画業を振り返る。
小磯良平《森》(1965-74年 神戸市立小磯記念美術館蔵)
小磯良平《リュートを弾く婦人》(1975年、神戸市立小磯記念美術館蔵)
第1章では、《青衣の女》(1929年)をはじめ、《踊り子》(1940年)や《森》(1965-74年)、《リュートを弾く婦人》(1975年、いずれも神戸市立小磯記念美術館蔵)など、なじみの作品」が並ぶ。
第2章では、「小磯良平の和装婦人像」が展示されている。和装婦人像には《日本髪の娘》を筆頭に、モデルと着物、ポーズの選択から細部の小物にいたるまで小磯の美意識が強く表れている。小磯はモデルの容貌、姿態だけでなく、コスチュームとしての着物からその女性の年齢、気性、趣味さえも表現しようと試みたのだ。内覧会で「筆のタッチが律動的になり、フォルムの表現性が大胆に進んで戦前の和装婦人像とは一線を画しています」と解説された。
小磯良平《舞妓》(1961年、武田薬品工業株式会社)
戦後、小磯は1958年から60年代にかけて舞妓を京都に通って描いた。さらに川端康成作『古都』の新聞挿絵を担当したことから、和装の労働着をまとった大原女、白川女も制作し、円熟の線描によるリトグラフを残している小磯が描く(洋画技法で描く)と、肖像画は別として「何か特別の造形意思が込められていたのでは」という。
小磯良平《着物婦人像》(1966年、個人蔵)
《日本髪の娘》は、1935年「第一回第二部会展」に賛助出品された作品だ。この時この作品の右手に展示されていた《踊り子》(武田薬品工業株式会社蔵)も出品しており、共に100号の大作で1930年代の小磯の代表作である。2点共に額縁も当時のものだ。
小磯は自身の制作においてモデルの魅力を引き立たせる衣装や小物などを選ぶことに生涯こだわり、描くにふさわしいモデル仕立て上げようと「小磯とファッションの関係を示すエピソードは枚挙にいとまがない」とされている。
小磯良平《大原女》(制作年不詳、神戸市立小磯記念美術館蔵)
この章には、《舞妓》(1961年、武田薬品工業株式会社)のほか、《着物婦人像》(1966年、個人蔵)、《大原女》(制作年不詳、神戸市立小磯記念美術館蔵)などが展示されている。
《日本髪の娘》でも、日本髪の鬘や床に置かれたバックも当然小磯がこだわって用意したものでしょう。モデルは、小磯に絵を習いに来ていた神戸の社長令嬢の上田種子さんだ。小磯のほかの作品でもモデルとなっており、本作の右隣に展示されている《踊り子》も彼女がモデルとなっている。上に右指を何気なくたらしています。そう、何でもない一瞬のモデルの様子を捉えています。床に敷かれた白い布は、小磯の作品にはよく見られるモチーフだそうで、背景の白いキャンバスやアトリエの端にある白いタイルとも呼応しているようだ。
特別別展の展示風景
第3章は「《日本髪の娘》と第二部会」。波乱の少ない小磯良平の画業の中で大きな画期と言えるのは、1935年に起こった「帝展改組」に 反対帝展無鑑査の有志たちが結成した在野の「第二部会」に参加したことだ。
小磯良平《日本髪の娘》(1935年、韓国国立中央博物館蔵)
当時、文部大臣の松田源治による帝国美術院(帝院)及び帝展の改革のことを「帝展改組」と呼び、「松田改組」としても知られる。それまでの規定を廃して新規定をもちこんだことから美術界は大混乱におちいり、帝展の作風も保守的傾向に変化した。この「美術界はじまって以来の大動乱」を避け、「二部会」の画家たちは官制の美意識から自由であることをめざしたのだ。
小磯良平《洋和服の二人》(1933-34年頃、神戸市立小磯記念美術館蔵)
帝展で洋画部門は「二部」とされていた。心静かに制作をしたい、芸術家の創造の自由を希求する洋画部門が組織的に反対を示し美術界に大きな動揺が起きた。戦争への足音が近づいてきている時期だった。「美術への国家統制を強める動きとして受け止められた。
小磯も帝展不出品の決議の中に入り、「第二部会」を結成して独自の発表の場を求めることになった。この集まりは、翌年の小磯を含む「新制作派協会」の結成につながる。この美術界はじまって以来の大動乱」を避け、「二部会」の画家たちは官制の美意識から自由であることをめざしたのだ。
小磯良平《踊り子》(1935年、武田薬品工業株式会社蔵)
小磯良平《和服の婦人像》(1935年、姫路市立美術館蔵)
翌年、松田文部大臣が急逝して、「第二部会」は、官展復帰を決めた。小磯や猪熊弦一郎らは、これに反対して新たに「新制作派協会」を結成した。官展に関与しないことを宣言して、在野から再出発し、これ以後小磯は「新制作派協会」を主な作品発表の場とした。《日本髪の娘》は、この第二部会に出品された節目となる作品なのだ。
小磯良平《着物の女》(1936年、神戸市立小磯記念美術館蔵)
最終章に、お目当ての《日本髪の娘》(1935年、韓国国立中央博物館蔵)が出品されている。さらに《洋和服の二人》(1933-34年頃、神戸市立小磯記念美術館蔵)や、《踊り子》(1935年、武田薬品工業株式会社蔵)、《和服の婦人像》(1935年、姫路市立美術館蔵)、《着物の女》(1936年、神戸市立小磯記念美術館蔵)千總《の流線美式天象》復刻(2014年、髙島屋史料館蔵)などが展示されていて見ごたえたっぷりだ。
千總《流線美式天象》復刻(2014年、髙島屋史料館蔵)
《日本髪の娘》は、1935年以降の日本と韓国それぞれの国の歴史的背景や日韓関係事情も背負って、長い歳月「幻の名作」となっていた。神戸へ里帰りの後、福岡市美術館(4月18日~6月21日)へ巡回する。
