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アートへの招待7 和歌山の文化力全国へ発信のテーマ展
文化ジャーナリスト 白鳥正夫内外の名品展や多様な個展・グループ展、絵画があれば陶芸や写真展など全国各地で多種多彩な展覧会が繰り広げられているが、和歌山県立近代美術館が総力を挙げて取り組んだテーマ展が一押しだ。和歌山県誕生150年を記念し、「紀の国わかやま文化祭2021」と連携して開催する特別展「和歌山の近現代美術の精華」(~12月19日)は、全国へ発信する魅力があり、見ごたえたっぷりだ。日本画をはじめ、洋画、彫刻、版画、写真、デザインから美術文化に至る和歌山の近代と現代の美術に関わる重要な作品を国内各地から集め、館蔵の名品とともに、前期(~11月23日)と後期(11月25日~)合わせ460点が出品される。こうした企画は、カネもテマもかかる。近年めっきり減ったテーマ展について、公立美術館の在りかたも含め言及する。
幅広いジャンルで美術史に足跡
和歌山県は、海と山に囲まれた自然風土を背景に、独自の歴史と文化を育んできた。その文化の担い手として、和歌山県立美術館は1963年に和歌山城内に、1970年には和歌山県民文化会館の1階部分に開館した。その後、拡大発展し、現在の和歌山県立近代美術館は1994年、和歌山城が望める隣接地に建設され移転した。黒川紀章による意匠を凝らした大型施設で、デッキによって和歌山県立博物館と連結する。ともに公共建築百選に選ばれている。
和歌山県立近代美術館の外観
コレクションは郷土作家の紹介を中心とし、保田龍門、川口軌外、川端龍子、浜口陽三、田中恭吉をはじめとして全体の作品所蔵品数は1万点を超える。とりわけ佐伯祐三の油彩13点を有する他、近現代の版画コレクションも充実している。
筆者は40数年前、和歌山に5年余住んでいた。当時、朝日新聞社の和歌山支局に在籍し県政記者を担当していた。県庁の前にあった文化会館の美術館を何度か訪ねた記憶がある。時を経て、文化企画の仕事に携わり、2002年には版画の山本容子展を担当し、古巣で仕事が出来た感慨深い地でもある。
展覧会は2部構成で、第1部が「観山、龍子から黒川紀章まで」。和歌山県は、明治期以降の美術の歴史において、大きな功績と独自の足跡を残した美術家を数多く輩出してきた。
日本画の下村観山や川端龍子、洋画の川口軌外や村井正誠、版画の田中恭吉や彫刻の建畠大夢、保田龍門ら数多い。大正期に和歌山県出身の美術家を集めて南紀美術会を創立した徳川頼倫や徳川頼貞、文化学院を開校した西村伊作ら、美術家がそれぞれの世界を築くために大切な貢献をした人物がいた。
さらにデザインの分野で活躍した山名文夫、戦後の美術の展開に重要な役割を果たした建畠覚造や浜口陽三、現在も活躍を続け残してきた。
充実の版画は有数の収蔵数を誇る
展示は、おおむね作家別に並ぶ。主な作家と出品作を紹介する。会場に入るや、まずは下村観山(1873-1930)の作品が目に飛び込んでくる。観山は能楽師の三男として和歌山市に生まれる。一家で上京後、開校間もない東京美術学校に学び、岡倉天心の薫陶を受け、後に日本美術院を代表する画家として知られる。
《白描 魔障図》(1910年頃、和歌山県立近代美術館蔵)と《魔障図下図》(制作年不詳、永青文庫蔵)、《魔障図》(1910年、東京国立博物館蔵、いずれも前期展示)が一堂に会し壮観だ。《熊野御前花見》(1894年)や、《仏誕》(1896年、ともに東京藝術大学蔵、前期展示)も。後期には、《唐茄子畑》(1910年頃 東京国立近代美術館蔵)が出品される。
下村観山《白描 魔障図》(1910年頃、和歌山県立近代美術館蔵、前期展示)
観山の兄で能面師や彫刻家として活動した下村清時(1868-1922)の《太子像》(1921年)や、《亀置物》(制作年不詳、ともに和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)にも興味を引いた。
下村清時《亀置物》(制作年不詳、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)
日本画の巨匠、川端龍子(1885-1966)も和歌山市生まれ。絵画の新しい可能性を示す活躍をし、文化勲章などを受賞している。《南飛図》(1931年、和歌山市立博物館蔵、通期展示)や、《草炎》(1930年、東京国立近代美術館蔵、前期展示)などが展示されている。
川端龍子《南飛図》(1931年、和歌山市立博物館蔵、通期展示)
田辺市生まれの野長瀬晩花(1889-1964)も、日本画の枠にとどまらない表現を開拓した。《島の女》(1916年頃、和歌山県立近代美術館蔵、後期展示)は面白い構図だ。同じく田辺市生まれの稗田一穗(1920-2021)の《帰り路》(1981年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)も出ている。
野長瀬晩花《島の女》(1916年頃、和歌山県立近代美術館蔵、後期展示)
稗田一穗《帰り路》(1981年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)
洋画では、和歌山県下出身の川口軌外(1892-1966)の《少女と貝殻》(1934年、和歌山県立近代美術館蔵)や、石垣栄太郎の《鞭うつ》(1925年、京都国立近代美術館蔵、ともに通期展示)が展示されている。
川口軌外《少女と貝殻》(1934年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)
石垣栄太郎《鞭うつ》(1925年、京都国立近代美術館蔵、通期展示)
抽象絵画で知られる村井正誠(1905-1999)は、医師であった父の仕事のため和歌山で育った。《風の中の除幕式》(1968年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)などがある。
村井正誠《風の中の除幕式》(1968年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)
版画は、ゆかりの作家が輩出し、質量ともに全国有数の収蔵数を誇る。創作版画の草創期に作品を遺した田中恭吉(1892-1915)のペン画《悔恨 第一》(『心腹幽趣』I所収)(1915年、和歌山県立近代美術館蔵、前期展示)はじめ、浜口陽三(1909-2000)の《4つのさくらんぼ》(1963年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)、恩地孝四郎(1891-1955)の《フォルム№.14 グロテスクⅡ》(1951年、和歌山県立近代美術館蔵、前期展示)など豊富だ。
田中恭吉《悔恨 第一》(『心腹幽趣』I所収)(1915年、和歌山県立近代美術館蔵、前期展示)
浜口陽三《4つのさくらんぼ》(1963年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)
恩地孝四郎《フォルム№.14 グロテスクⅡ》(1951年、和歌山県立近代美術館蔵、前期展示)
和歌山出身の彫刻家・画家として活躍した保田龍門(1891-1965)の《光明皇后賜療》 (1936年、和歌山県立近代美術館蔵)、龍門の息子で彫刻家の保田春彦(1930-2018)の《進化の過程》(2010年、個人蔵)、建畠大夢(1880-1944)の彫刻《おゆのつかれ》(1913年/1970年、和歌山県立近代美術館蔵、いずれも通期展示)も出品されている。
保田龍門《光明皇后賜療》(1936年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)
保田春彦《進化の過程》(2010年、個人蔵、通期展示)
建畠大夢《おゆのつかれ》(1913年/1970年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)
このほか、大阪生まれながら幼少期に和歌山で育った松谷武判(1937-)の《WORK-63-9》(1963年、和歌山県立近代美術館蔵)、山名文夫(1897-1980)の《資生堂創業100年記念 新聞広告イラストレーション原画》(1972年、資生堂企業資料館蔵、いずれも通期展示)など幅広いジャンルにわたっている。
松谷武判《WORK-63-9》(1963年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)
山名文夫《資生堂創業100年記念 新聞広告イラストレーション原画》(1972年、資生堂企業資料館蔵、通期展示)
第1部最後の黒川紀章(1934-2007)の展示(通期)では、《和歌山県立近代美術館のスケッチ》(1993年、黒川紀章建築都市設計事務所蔵)や、《和歌山県立近代美術館・博物館 模型》(1994年、和歌山県立近代美術館蔵)などがずらりと並ぶ。
黒川紀章《和歌山県立近代美術館のスケッチ》(1993年、黒川紀章建築都市設計事務所蔵、通期展示)
黒川紀章《和歌山県立近代美術館・博物館 模型》(1994年、和歌山県立近代美術館蔵、通期展示)
写真家・島村逢紅に初スポット
続く第2部は「島村逢紅と日本の近代写真」で、和歌山市出身の写真家・島村逢紅(しまむら ほうこう)を、初めて本格的に取り上げている。
島村逢紅(本名:安三郎/1890-1944)は和歌山市の酒造業などを営む家に生まれた。若い頃から美術に興味を持ち、中学時代から美術雑誌『みづゑ』に投稿して日本水彩画会会友になるなどの活動を始める。美術学校進学は、家業を継ぐため断念するが、絵画とほぼ同時期に始めた写真は、逢紅の生涯にわたる表現活動となった。1912年には、和歌山市にて「木国写友会」を結成して活動を本格化させ、雑誌の公募や展覧会などへの入賞によって次第にその名は全国に知られることになる。
島村逢紅の肖像(以下の作品すべて、通期展示)
1930年代には、福原信三が設立した「日本写真会」の同人となり、1939年に資生堂ギャラリーで初めての個展を開催。芸術写真から新興写真へと移り変わる時代において、逢紅はその独自の漆黒と階調表現により、福原信三の弟で同時代に活躍した写真家、福原路草と対比して「路草の白、逢紅の黒」と高く評された。
展覧会では、交流のあった同時代を代表する写真家たちの福原信三、福原路草、野島康三、安井仲治、淵上白陽や、「木国写友会」のメンバーだった島村嫰葉 、島村紫陽、江本綾生の写真作品、また同郷の寺中美一や保田龍門、その出会いのきっかけともなった荻原守衛の作品も展示。1910 年代から40年代までの逢紅の作品約200点、その他の作家の作品約50点により、逢紅の足跡とその時代を振り返る。こちらも主な作品を画像とともに紹介する(すべて通期展示)。
展示は、大きく2章に分けられ、まずは「島村逢紅」。その「プロローグ:美術をめぐる交友」として、荻原守衛(1879-1910)の《女》(1910年、碌山美術館蔵)や、保田龍門の《島村氏像》(1920年、個人蔵)などの彫刻作品が目を引く。壁面には、逢紅の写真作品が、ほぼ時系列で並ぶ。
荻原守衛《女(新宿・碌山館)》(1913年、和歌山県立近代美術館蔵)
「1910年代を中心に」に、《轍の跡》(1913年、個人蔵)、「1920年代を中心に」には、《トンネル》(1920年、個人蔵)や、《タンク》《桜》(ともに制作年不詳、東京都写真美術館蔵)などが展示されている。
島村逢紅《轍の跡》(1913年、個人蔵)
島村逢紅《トンネル》(1920年、個人蔵)
島村逢紅《タンク》(制作年不詳、東京都写真美術館蔵)
島村逢紅《桜》(制作年不詳、東京都写真美術館蔵)
「1930-40年代」になると、《初秋》(1936年、個人蔵)や、《母と子 其一》(1934年、個人蔵)、《眼鏡と洋書》(1930年代、個人蔵)、《椿》(1930年代、東京都写真美術館蔵)など、モノトーンの作品が光彩を放つ。
島村逢紅《初秋》(1936年、個人蔵)
島村逢紅《母と子 其一》(1934年、個人蔵〙
島村逢紅《眼鏡と洋書》(1930年代 個人蔵)
島村逢紅《椿》(1930年代、東京都写真美術館蔵)
第2章が「同時代の写真家たち」の作品で、野島康三(1889-1964)の《樹による女》(1915年、京都国立近代美術館蔵)や、 島村紫陽(1903-1974)の《丘》(1929年、東京都写真美術館蔵)など、充実した作品が出揃っている。
野島康三《樹による女》(1915年、京都国立近代美術館蔵)
島村紫陽《丘》(1929年、東京都写真美術館蔵)
第2部担当の奥村一郎学芸員は、「逢紅が試みたさまざまな写真をオリジナルプリントで見ることができる貴重な機会です」と話している。
苦心の企画、大いなる試みに拍手
今回の特別展を約3時間かけて見たが、こうして概要を原稿にするとなると、十分に鑑賞できていなかったことが分かる。まずその展示数の多さだ、第1部では、前後期合わせ33作家213点を数える。第2部の方も12作家247点に及ぶ。このうち館蔵品は100点そこそこで、全国の美術・博物館や個人から借用していることに驚く。美術館スタッフが、長い時間をかけて、テーマに沿った作品調査をした上、借用や展示作業などに取り組んだことの大変さが推察できる。
会場を回っていて、筆者も新聞社の企画で関わっていた戦後50年記念の「戦後文化の軌跡 1945-1995」展が思い出された。絵画や彫刻などのほか写真、建築、デザイン、ファッション、いけばな、映像、マンガにいたる様々な視覚文化を検証しようという壮大なテーマ展だった、4会場の学芸員らとの打ち合わせは20数回、出品作選定に合宿して協議した。借用先は200ヵ所以上だった。
こうした展覧会は近年、お目にかからなくなった。主催者は経費面から展覧会の成否を動員数で判断する傾向がある。テーマ展は趣旨に意義があるものの、得てして動員が見込めない。「労多くして、益少なし」が実情だ。しかし展覧会を仕立てるプロセスこそ企画の醍醐味があり、スタッフにとっては切磋琢磨や人脈づくりなど大きな収穫になる。
さて約2年になる新型コロナ禍にあって、美術館運営の在りかたも問われている。感染防止上、一時は休館に追い込まれた。現在も来館者の検温や消毒液の備え、予約制で入場制限の館もある。
東京などの美術・博物館でフェルメールやルノワール、モネ展といった海外名品展で「押すな押すな」による収益増は、しばらく望めないだろう。これまでのように動員数追求が出来なくなっている。そもそも採算重視の日本型美術館運営には問題があったのだ。
美術館は、学芸員の養成に加え、教育や普及、保存・修復など非営利の総合組織でもある。安易な海外企画展に目を奪われること無く、地道で良質な企画展で、市民に文化的豊かさを還元していく原点に戻ってほしいと思う。
今回の特別展は、国民文化祭に合わせた予算枠を活用して実現した。公立美術館を維持する行政当局は、世の中が不況になれば、美術館などの予算を削るのが一般的だ。しかしコロナ禍によって、閉塞状況の市民らが美術や音楽などの芸術に触れることが、いかに心の糧になることも痛感させられた。コロナ後を見据え、美術館の在りかたを再考すべきだ。
単独館ながら、「和歌山の近現代美術の精華」は開催にこぎつけた。山野館長は、「和歌山の近現代美術が、いかにバラエティ豊かに展開してきたか、そして日本美術の中でどのような位置を占めているかを再考いただける好機でもあるでしょう」と語る。
そして展覧会図録の巻頭文の最後に、「今後も和歌山県立近代美術館が、さらなる展開、飛躍していくための確かな道標になるに違いない」と結んでいる。筆者は今回の試みに大いに拍手を贈り、広く県外から、紀州徳川家の名城の麓にある美術館を訪ね、この苦心のテーマ展を時間をかけて見ていただきたいと切に願う。