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アート鑑賞の玉手箱4 戦時体験を版画や彫刻で表現し戦争を告発 今夏、熊本で「浜田知明のすべて展」
文化ジャーナリスト 白鳥正夫自らの戦時体験を彫刻や版画作品に投影し続ける老作家がいる。熊本市在住の浜田知明さんだ。今年98歳を迎える現在も創作意欲は衰えていない。戦後70年の節目の今年、熊本県立美術館では8月1日から9月13日まで特別展「浜田知明のすべて」を開催している。銅版画や彫刻をはじめ油彩画、スケッチ、デッサンなど初期から近作まで360点もの出品で、まさに全貌展だ。中でも戦争の愚かさを告発するとともに、風刺やユーモアのあるオリジナリティにあふれた作品に感銘を受ける。「戦争とはどのようなものなのか」「戦争とはいかに愚かなことなのか」―。声高に反戦を叫ぶのではなく、作品に託した浜田さんの思いを取り上げる。
浜田知明さん
97歳、近作も展示、なお制作へ執念
今回の展覧会には、初期の作品をはじめ代表作とともに、近作も出品されている。2008年の作品「夜行軍、雨」と「夜行軍、山を行く砲兵隊」の2点や、2013年の「山を行く砲兵隊」は、従軍中に脳裏に焼きついた光景をイメージして描いたデッサンなどだ。95歳で制作した「杖をつく男」(2013年)の自刻像や、「腐っていく兵士」(2014年)などの彫刻もあり、作品の全貌を回顧するものだった。
この展覧会を担当した井上正敏学芸員には、約1年前から今夏の開催をお聞きし、開催2ヵ月前には「休みなしで毎晩10時近くまで美術館で残業です」 といったメールで準備の苦労もうかがっていた。また東京の個人所蔵家から油彩の「驢馬」(1944年)の借用が叶い、初めて九州で展示できる喜びなど学芸 員冥利に尽きる全貌展になったことの、感慨深いものがあった。
開会式で、浜田さんは「熊本県立美術館での展覧会は4回目ですが、ちょっと早目の遺作展となってしまいました」と冗談を交え、「97歳の一人の作家として作品数は少なすぎます。これからも作品を作っていきます」と挨拶をされた。
会場で時間をかけて自作に見入っていた浜田さんに感想をお聞きすると、「これまで何をしてきたのか 悔いが残ります」の言葉が返ってきた。「生涯芸術家」のすさまじさに驚嘆した次第だ。
核戦争の脅威を暗示、時代への警告
私が浜田さんを知ったのは、朝日新聞社で企画を担当していた1995年、戦後50年記念企画「ヒロシマ 21世紀のメッセージ」展だ。出展した浜田作品は、広島市現代美術館所蔵の「ボタンB」(1988年)だ。35.5×51.0センチの小さな銅版画だが、メッセージは重い。
作品の構図は、核のボタンに手をかけようとする頭巾を被った男の背中のボタンを押そうとしているへらへらとした真ん中の男。ひときわ大きい硬い表情の男が、前の男の後頭部に付けてあるボタンを押そうとしている。最後にボタンを押す決定を下す大男の頭上にはきのこ雲が描かれている。それは一人の権力者の意思によって引き起こされる核戦争の脅威を暗示しているかのようだ。
浜田さんはこの作品について次のようなコメントを寄せている。
モチーフについては、殊更解説の必要はあるまいと思う。今や人類の存否はこのボタンひとつにかかっていると言っても過言ではない。核の不安の上に辛うじて保たれている平和。現代の危機をどのように表現すればよいのか、長い試行錯誤の末に、私なりにこのような作品に辿り着いた。
2年後には彫刻でも「ボタンを押す人」を発表した。米ソの冷戦構造は終焉したとはいえ、核をめぐる緊張は北朝鮮をはじめとして、現在もなお黒い影を 投げかけている。銅版画の「ボタンB」は、核による戦争の構造と恐怖を冷静にとらえており、彫刻の「ボタンを押す人」は、一見ユーモラスな造形ながら国際社会を風刺する効果も高めている。
1996年には「浜田知明の全容」展に関わり、数多くの作品を目にすることができた。この展覧会は朝日新聞東京企画部が仕立て、私は伊丹市立美術館の担当デスクとして参画した。会場に来られた浜田さんと親しく懇談でき、作品について直接解説していただける機会に恵まれた。この展覧会では、200点を 超す版画と彫刻が出展された。
代表作「初年兵哀歌(歩哨)」(1954年)が印象に残った。暗い塹壕の中、ひとりの歩哨が銃を喉もとにつきつけ、足の指で引き金を引こうとする構 図だ。骸骨のような頭をもった歩哨の眼から、一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちようとしている。過酷な軍隊から逃れるには自ら命を絶つしかない苦悩は、自殺のことを考えて生きていた作家自身の姿でもあったのだ。
「毎日、毎日なぐられた。ほっと自分に返れるのは、狭い便所の中と、夜、一人で歩哨に立っているときぐらい」と、浜田さんは著書に書いているが、戦時中の凄惨で不条理な体験は、創作活動のテーマとなった。
戦争体験を出発点に普遍性の作品
浜田さんは1917年、熊本市郊外の御船町に、教育者の次男として生まれた。東京美術学校で油画を専攻し1939年に卒業後すぐ応召され、熊本歩兵連隊に入隊。翌年中国大陸へ派遣され、43年に除隊されるも、44年再び入隊し、伊豆七島の新島で軍務についた。20歳代の大半を軍隊で過ごした。
作家としてのデビューは第二次大戦の終戦を待たねばならない。戦後、浜田さんは郷里熊本に帰り、県立熊本商業学校の教員をしながら作品制作を手がける。しかし作家として自立をめざし、1948年に東京へ出て自由美術家協会に所属して作品発表の機会をうかがう。
最初はモノクロームの銅版画を表現手段に選んだ。白と黒で作り出す深い明暗こそ最適だった。やがて60年代半ばから、版画の枠を超え立体による具象的に表現する彫刻へと、表現世界を広げていく。青春時代を軍隊で生きた体験が、人間の愚かさや弱さ、社会の不条理を直視する画家としての出発点となった。人生観も芸術表現も、戦争体験と切り離せなかった。
1950年代に「初年兵 哀歌」シリーズなど銅版画制作で注目を浴び、53年にサンパウロ・ビエンナーレへ出品する。64年から65年は滞欧し、フィレンツェ美術アカデミー版画部名誉会員となり、89年にはフランス政府からシュバリエ章を受賞している。
私は「浜田知明の全容」展以来、時代に寄り添い、風刺とユーモアもある作品に興味を覚えると同時に、人間への深いまなざしに魅かれた。1997年以 降、熊本を訪れた際に2度ご自宅を訪ねた。その後、何度か手紙のやり取りをさせていただいた。穏やかな表情で語り、丁寧な字で書かれた手紙をいただいたが、内に秘めた創作への意欲の激しさに感銘を受けた。
その後、各地で開かれた展覧会を注目してきた。東京のヒロ画廊、大阪のギャラリー新居などで2005年に開かれた「浜田知明新作彫刻展 2000-2004」には、「悩ましい夜」(2000年)「冷たい関係」「病院の廊下で」(いずれも2001年)「かげ・見えない壁」(2002年)な ど、新たな挑戦を確認することができた。
2010年に神奈川県立美術館葉山で開かれた「版画と彫刻による哀しみとユーモア 浜田知明の世界展は画期的だった。版画173点、彫刻73点に油彩画やデッサン・スケッチ、資料など総数約330点に及んだ。
展示の最後の章に「初期油彩と最近のデッサン」があり、「自画像」や「寺院」(1949年)などの油彩とともに、2008年の作品「夜行軍、雨」と 「夜行軍、山を行く砲兵隊」の2点が出品されていた。従軍中に脳裏に焼きついた光景をイメージして描いたデッサンだった。一貫してゆるぎない創作姿勢を物語っていた。
時代を超えたメッセージ、海外でも注目
イタリア・フィレンツェにあるウフィッツィ美術館は、ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」やダ・ヴィンチの「受胎告知」の所蔵で知られ、ルネサンス絵画の宝庫とされる美術館だ。そんな美術館が2007年12月から翌年1月にかけて「浜田知明展」を開催した。もちろん日本人作家として初めてで、展示された「初年兵哀歌」シリーズなど19点は、浜田さんから寄贈され収蔵されることになった。現存作家の展覧会としては、イタリアの代表的な現代彫刻家であるチェッコ・ボナノッテ氏に次いで二人目の快挙だった。
2007年にウフィッツィ美術館で開催された「浜田知明展」の会場入り口
ウフィッツィ美術館での展覧会は、しばしば来日しているボナノッテ氏の推薦で、ジョルジオ・マリーニ版画担当学芸員は「ルネサンス期のメディチ家も、当時の現代美術を集めたのです。過去に学ぶとともに新しい刺激にもなる。浜田作品は戦争に関するテーマ性があり、技法は新しいものの、ゴヤなどの伝統的な手法にも近い」と話している。この展覧会に浜田さんは体調が万全でなく出向けなかったが、「ダ・ビンチやミケランジェロなどの作品と並べられ、誰が見 にきてくれるやら…」と感想を漏らしている。
浜田さんの作品が海外で注目されたのは1979年に遡る。オーストリアの首都ウィーンにある版画と素描で世界有数のアルベルチーナ国立美術館で約100点が展示された。その後、同国のグラーツ州立近代美術館にも巡回した。二つの大戦下、悲劇の歴史を持つだけに、戦争という地獄を直視し、戦争の非人間性を告発し、現代人の不安や苦悩を取り上げた作品に深い共感を得た。
時は移り2012年11月から翌年2月まで、ニューヨーク近代美術館で「東京1955-1970」展が開催され、岡本太郎ら日本を代表する作家の絵画や彫刻とともに、浜田さんの版画も陳列し、収蔵された。戦争体験を描いた銅版画「初年兵哀歌」シリーズの「風景」や「銃架のかげ」が注目された。この時の浜田作品がフランスのルーブル美術館分館のルーブル・ランスで2014年5月から10月に開催された「THE DISASTERAS OF WAR」に貸し出され展示された。この展覧会は19世紀初頭からの主要な戦争を12のセクションに分け、戦争の醜さを告発した。
これより先の1993年8~9月には大英博物館でも「浜田知明展」が開催されている。当時のローレンス・スミス日本美術部長は『浜田知明作品集<コンプリート1993>』(求龍堂)に言葉を寄せ、こう締め括っている。
――浜田知明は世界的な芸術家であり、世界的ということでいえば、時の流れが与える洞察力をもって芸術の歴史が書かれるにつれ、さらに世界が彼を重要な存在とすることは疑いがない――と。
驚きが芸術の命であるかのように、すぐれた芸術家は、日々起きる事象を肌で感じ、時代の目撃者となり、鑑賞する者へ作者の意図を伝える作品に仕上げる。そしてその時代を鋭く観察し、先見し、人間社会の普遍的なものを見出していくものだ。
自らの戦争体験を基に戦争への憎悪と平和への願いを版画や彫刻に託した浜田さんは、人間の持つ心の闇や残酷さを銅版画で見事に表現したゴヤのように、時代を超えて痛烈なメッセージを発する作家だ。いま、改めて浜田さんの作品に目を向けると、重い主題を作品に投影しつつも、おぞましく、どこかユーモラスで哀れな姿として描かれた人物たちに、深い共感を覚える。
浜田さんは、次のように主張している。
人間は社会的な存在だ。だから、私は社会生活の中で生じる喜びや苦悩を造形化することによって、人々と対面したいと思う。そして、抽象では感じは伝えられても、言いたいことは伝わらない。人に訴えるには主題を持ち、具象的に表現するしかない。