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シルクロード国献男子30年 第12回 日中共同ニヤ遺跡学術調査の幕開け
国際協力実践家 小島康誉さて、番組制作をご縁として、私メ「国際貢献手弁当長期実践家」が連載を始めました。検索いただいている皆様に感謝します。掲載いただいているADC文化通信に合掌します。キジル千仏洞修復保存協力の紹介はいちおう終えて、それに続く活動を話したいと思います。お付き合いいただければ幸いです。
キジル千仏洞の修復活動の過程で、新疆ウイグル自治区文化庁文物処の韓翔処長が「新疆には三大著名遺跡がある。楼蘭・キジル・ニヤだ。楼蘭は基本調査がおわり、キジルは日本からの資金協力で修復中、ニヤ遺跡は大規模だが本格的調査が行われていない」と言いました。
筆者は即座に共同調査を提案しました。世界的文化財は保護研究しなければならないと思っていたからです。キジルといい本件といい、よほどの〝おっちょこちょい〟ですね。中学生の頃、シュリーマンなどの伝記を読みニヤ遺跡の名は脳裏に刻まれていたからでもあります。韓さんはすぐに同意したものの、この時もまた正式許可をえるまでには長い時間を要しました。過去の西域一帯における日本人を含む外国人による文化財持ち出しや遺跡が未開放地区に属していることなどの理由からです。新中国建設に驀進中であり、またスタイン第四次新疆探検から50年余しか経過しておらず、外国との共同調査への拒否反応は、今では想像できないほど強烈でした。新疆ウイグル自治区政府の関係部門と人民解放軍に対して、新疆文化庁あげての説得が続けられました。
ニヤ(尼雅)遺跡は、タクラマカン沙漠南縁の小都市ミンフゥン(民豊)から約100km北上した一帯に残る紀元前1世紀頃から紀元5世紀頃まで栄えた古代都市の遺跡で、『漢書』などに記載の西域36国のひとつ「精絶国」に比定されています。
後に私たちの調査で判明したことですが、その規模は東西約7km・南北約25km(周辺を含む)という広大な範囲にわたり、北緯37度58分34秒・東経82度43分15秒に位置する仏塔を中心に、寺院・住居・生産工房・墓地・果樹園・貯水池・家畜小屋・橋状遺構・垣根・城壁・並木など約220ヵ所の遺構と数10ヵ所の遺物散布地、さらには河床・大量の枯樹林などが残存しています。一帯の海抜は1,200m前後です。北におよそ420㎞隔てるキジル千仏洞が断崖に穿たれた石窟寺院であるのに対して、ニヤ遺跡は大沙漠に残存する木造遺構群です。
ニヤ遺跡を発見し、この遺跡を「ニヤ遺跡」と命名したのは、ハンガリー生まれで後にイギリスに帰化した探険家で考古学者のオーレル・スタイン、1901年1月のことです。彼は06・13・31年にも調査をおこない、700余点のカローシュティー文書など大量の文物を持ち出し、当時としては卓越した研究をおこない、詳細な報告書などで発表しました。
大谷探検隊の橘瑞超も1909年に進入を試み、途中までは至っていますが、遺跡には暑さのためか日程上か到達していないようです。1959年には新疆博物館隊が調査を行い、遺跡北部で男女合葬墓を発掘しました。下記写真の鮮明度から当時の新疆をお察しください。
これらの調査研究により、ニヤが3~4世紀頃クロライナを中心とする楼蘭王国の西端のオアシスとして、納税・契約・駅伝制度などの整った中央集権国家の一部であったことが判明。二千年を経て今日まで住居の柱などがそのまま残存するタクラマカン沙漠で最大かつ重要な遺跡として注目を集め、一躍有名になりましたが、大沙漠の奥深くに位置するなどの理由から体系的に調査されることはなく、本格的調査が待たれていました。
1988年7月、わが国の文化遺産保護姿勢を理解してもらうために韓翔処長一行を招聘、同月19日、ニヤ遺跡やダンダンウイリク遺跡などをふくむ西域南道の遺跡群調査に関する覚書を筆者と韓処長が交わしました。キジル千仏洞の修復への貢献が評価され、「参観」名目での共同調査許可でした。
1988年10月29日、日本隊3名(堀尾寶・北野博之両氏と筆者)が出発し「日中共同ニヤ遺跡学術調査」が開始されました。なお調査には東京国立博物館の2名の研究員が参加予定でしたが、出発直前にキャンセルされました。
90㎞に12時間余
第一次予備調査は、沙漠車やGPSといった近代装備を持たない、まさに「探検」でした。中国側は韓処長を隊長に、盛春寿新疆文化庁文物処員(後に新疆文物局長)・イティリス新疆文物考古研究所研究員(後に考古研究所長)・王経奎新疆文化庁外事弁公室員・リジェプ和田文管所長。サポート隊は通信士・運転手・ラクダ使い。
ミンフゥンから中古トラックと日本製4駆でニヤ河の干上がった河跡や林の中を北上。トラックはすぐに故障し装備を4駆に移しかえ前進するも度々トラブル。道らしい道も無く道を切り開き・・・車輪が砂にとられて頻繁にスタックその度ごとに木を敷いて皆で車を押し・・・そんなことの繰り返し。
カパクアスカンと称される小オアシスまでの約90㎞(走行距離)に12時間余を要しました。突然現れた外国人に住民は興味津々。数日前に出発したラクダ隊が待っていてくれました。
一休みする間もなく中国側隊員が牛や羊の糞の浮いた汚水を錆びついたタンクに汲んでいるので、ラクダ用の水かと聞くと、人間用だとの答え。これには唖然としました。
30㎞に3日
ウイグル族の民家にゴロ寝し、翌朝ラクダに装備を積み、その上に乗っていよいよ遺跡へ。と言ってもラクダに荷物を背負わすのは一仕事。出発できたのは昼でした。
頼りとしたのは、スタイン報告書記載の簡単な概念図と1980年にNHKと中国中央TVによる「シルクロード」共同取材班を案内したイティリス研究員やラクダ使いコルバンの記憶だけでした。筆者はスタインの概念図により沙漠地帯を北上することを提案しましたが、中国側リードによりタマリックス堆地帯ルートとなりました。
安全のために政府から派遣された通信士の定期交信は「現在地不明なれど全員無事」でした。モールス信号用のアンテナを立てる度に小一時間を要しました。タマリックス堆の間を「右だ、左だ」とラクダで3日かけてようやく仏塔に到達。11月6日早朝のことです。ここに画期的調査の幕が開きました。この時の感激は今でも忘れられません。