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注目の大規模巡回展、奈良と神戸で開催中
文化ジャーナリスト 白鳥正夫新型コロナの感染拡大が続く京阪神では、3度目の緊急事態宣言が発出され、さらに延長措置となった。そうした厳しい状況下、2つの注目すべき大規模巡回展が関西から始まった。緊急事態の域外にある奈良国立博物館で、聖徳太子1400年遠忌記念特別展「聖徳太子と法隆寺」が6月20日まで、その後東京国立博物館(7月13日~9月5日)で催される。4月末の開幕直後から休館に追い込まれていた神戸市立博物館の特別展「東山魁夷唐招提寺御影堂障壁画展」は、緊急事態延長後の緩和で、6月9日まで再開・延長(当初6月6日、5月31日・6月7日も臨時開館)された。こちらも富山県美術館(9月18日~11月7日)と、長野県立美術館(11月19日~2022年1月16日)に巡回する。いずれも、聖徳太子と鑑真を偲ぶ壮大なスケールでの企画内容で、コロナ禍とはうえ、足を運ぶだけのことはある。
聖徳太子1400年遠忌記念特別展「聖徳太子と法隆寺」
国宝36件、重文75件を含む約200件を展示
法隆寺
奈良・斑鳩の地に悠久の歴史を刻む法隆寺は、607年(推古天皇15年)、聖徳太子によって創建されたと伝えられる。聖徳太子(574~622)は、推古天皇の時代に蘇我馬子らとともに政治を補佐し、仏教を中心とした国造りを行った。冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣によって政治制度を整え、国の文化的な基盤を築き上げた。
さらに聖徳太子は法華経や勝鬘経、維摩経の教えを深く研究することで、仏教文化を大きく飛躍させた。生前から「上宮法皇」と呼ばれた太子に対する尊崇はやがて太子信仰として結晶し、その流れは現在も日本仏教のうちに脈々と息づいている。法隆寺はその信仰の中心となるとともに、現存する世界最古の木造建築群を有し、数多くの国宝や文化財を今に伝える。
今年が聖徳太子の1400年遠忌にあたることから、法隆寺において護り伝えられてきた寺宝を中心に、太子の肖像や遺品と伝わる宝物、飛鳥時代以来の貴重な文化財を通じて太子その人と太子信仰の世界に迫る。また「法隆寺献納宝物」が、奈良へまとまって里帰りする貴重な機会ともなる。
法隆寺は、聖徳太子により創建された聖徳宗の総本山。670年(天智天皇9年)の火災で焼失後、8世紀初めまでに再建されたのが金堂・五重塔を中心とする西院伽藍で、金堂内には飛鳥時代の諸仏が安置されている。739年頃に建てられた夢殿を中心とする東院伽藍は、太子信仰の中心となる。
なお「法隆寺献納宝物」とは、廃仏毀釈運動の動乱から法隆寺と宝物を守るため、1878年に宝竜寺から皇室へ献納された仏教美術を中心とする約320件の文化財。終戦後の国有化を経て東京国立博物館で所蔵されている。
今回の展示品は期間中(前期~5月23日、後期5月25日~)に、国宝36件はじめ、重要文化財75件を含む約200件が出品される。コロナ対策のため、事前予約<優先>制を導入。予約不要の当日券も会場にて若干数用意しているが、前売り日時指定券持参の方の入場を優先する。
国宝の《玉虫厨子》圧巻、国宝・重文目白押し
展示は5章で構成されている。章ごとに、その内容と主な展示品を画像とともに紹介する。第1章は「聖徳太子と仏法興隆」。聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇の時代、朝鮮半島の百済から仏教が伝わった。仏教の受容をめぐっては蘇我氏と物部氏を中心とする戦いなどの混乱があったが、太子が政治の中心的な立場になると急速に浸透する。金銅仏をはじめとした仏像が造られるようになる。
まず《聖徳太子二王子像》模本(狩野養信筆、江戸時代・天保13年 1842年、東京国立博物館蔵、東京会場のみ)は、中央に太子を一際大きく、向かって左に弟の殖栗王(えぐりおう)と、右に息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)とされる二王子を配した、教科書などでおなじみの画像だ。
《聖徳太子二王子像》模本(狩野養信筆、江戸時代・天保13年 1842年、東京国立博物館蔵、東京会場のみ)
重要文化財の《菩薩立像》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵)は、神秘なる飛鳥の微笑みを湛える。山形の高い宝冠、面長の顔に見開いた目、微笑みを浮かべた口、両体側に魚のヒレのように広がった衣の表現など、金堂釈迦三尊像の両脇侍と似ている。
重要文化財《菩薩立像》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵)
《夾紵棺(きょうちょかん)断片》(飛鳥時代・7世紀、大阪・安福寺蔵)は、高級な棺で、この断片は45層もの絹を用いた極めて特殊な構造であり、その幅は記録に残る聖徳太子の棺台(叡福寺北古墳)に一致する。このため太子の棺である可能性が指摘されている。
《夾紵棺断片》(飛鳥時代・7世紀、大阪・安福寺蔵)
第2章は「法隆寺の創建」で、聖徳太子は、自らが住む斑鳩宮に隣接して法隆寺を創建した。『法隆寺資財帳』では推古天皇15年のこととされ、同年には小野妹子が遣隋使として中国大陸に派遣されている。その名が意味するように「仏法興隆」を推し進める中心地だ。本章では儀式の場で用いられた多くの仏具や伎楽面を通じ、法隆寺の荘厳を示す展示となっている。
国宝の《灌頂幡(かんじょうばん)》部分(飛鳥時代・7世紀、東京国立博物館蔵〔法隆寺献納宝物〕)は、聖徳太子の娘が奉納した豪華な〝はた〟。銅の板を彫り透かして作られた極めて豪華な幡で、天上から舞い降りる菩薩の姿が雄大に表されている。
国宝《灌頂幡》部分(飛鳥時代・7世紀、東京国立博物館蔵〔法隆寺献納宝物〕)
同じく国宝の《天寿国繍帳》部分(飛鳥時代・推古天皇30年 622年頃、奈良・中宮寺蔵、東京会場のみ前期)は、聖徳太子没後、橘妃の願いを受け、推古天皇の命によって作られたという帷(とばり、カーテン)の断片。太子が往生したという「天寿国」のありさまが緻密な刺繍によって表わされており、飛鳥時代の仏教思想を知る上でも極めて重要な作品である。
国宝《天寿国繍帳》部分(飛鳥時代・推古天皇30年 622年頃、奈良・中宮寺蔵、東京会場のみ前期)
第3章は「法隆寺東院とその宝物」。太子が住んだ斑鳩宮の跡地に、739年(天平11年)になって建立されたのが東院伽藍だ。中心をなす夢殿の本尊は太子等身の救世観音像であり、創建にあたっては太子の遺品類も集められた。夢殿後方の絵殿・舎利殿には「聖徳太子絵伝」と「南無仏舎利」が安置され、太子信仰の重要な拠点となった。
国宝の《観音菩薩立像(夢違観音)》(飛鳥時代・7~8世紀、法隆寺蔵、奈良会場のみ)は、この像に祈れば悪夢が吉夢に変わるとの伝承から「夢違観音」の名がある。明るくほがらかな表情は飛鳥時代後期(白鳳期)の典型を示す。軽やかな天衣や繊細な指先に至るまで、随所に洗練された造形感覚が発揮されている。
国宝《観音菩薩立像(夢違観音)》(飛鳥時代・7~8世紀、法隆寺蔵、奈良会場のみ)
重要文化財の《聖徳太子坐像(伝七歳像)》(平安時代・治暦5年 1069年、法隆寺蔵、奈良会場のみ)は、東院絵殿に安置されていた聖霊会の本尊。太子を穏やかな風貌の少年の姿で表す。像内銘により、仏師円快が制作し、絵殿の「聖徳太子絵伝」を描いたとされる秦致貞(はたのちてい)が彩色したことが知られている。制作当初の彩色が鮮やかに残っている。
重要文化財《聖徳太子坐像(伝七歳像)》(平安時代・治暦5年 1069年、法隆寺蔵、奈良会場のみ)
奈良時代肖像彫刻の傑作の一つとされる国宝の《行信僧都坐像》(奈良時代・8世紀、法隆寺蔵)は、夢殿本尊救世観音像の左脇の厨子内に安置されている。行信(生没年不詳)は、荒廃していた斑鳩宮の地に、東院伽藍を建立したと伝わる。
国宝《行信僧都坐像》(奈良時代・8世紀、法隆寺蔵)
国宝の《聖徳太子絵伝》部分(秦致貞筆、秦致貞筆、平安時代・延久元年 1069年、東京国立博物館蔵〔法隆寺献納宝物〕、奈良会場前期)は、全10面一挙公開されている。
《聖徳太子絵伝》部分(秦致貞筆、秦致貞筆、平安時代・延久元年 1069年、東京国立博物館蔵〔法隆寺献納宝物〕、奈良会場前期)
第4章は「聖徳太子と仏の姿」で、平安時代になると、聖徳太子を救世観音の生まれ変わりとみる信仰が生まれ、太子も中心的な信仰の対象となった。また二歳像や十六歳像など聖徳太子は様々な姿で表されてきた。この章では多彩な太子の姿とともに、法隆寺に伝来した仏画の名品がしゅっぴんされている。
国宝の《聖徳太子および侍者像のうち聖徳太子》(平安時代・保安2年 1121年、法隆寺蔵)は、聖霊院の秘仏本尊で27年ぶり寺外公開。冠を戴き、笏をとる聖徳太子の威厳に満ちた姿で、太子の500年遠忌に造立された。今回の特別展で、秘仏本尊として通常拝観の機会がない本像を間近に拝観できる。
国宝《聖徳太子および侍者像のうち聖徳太子》(平安時代・保安2年 1121年、法隆寺蔵館)
重要文化財の《聖徳太子像》(鎌倉時代・13世紀、法隆寺蔵、奈良・東京会場とも後期)は、角髪(みずら)を結い、柄香炉を捧げ持ち、袈裟をつける童子形の聖徳太子像。孝養像と呼ばれるこの姿は太子16歳の折、父用明天皇の病気平癒を祈り、看病した際の様子を描く。太子の肖像の中でも代表作例の一つである。 ほかに重要文化財の《聖徳太子像孝養像》(鎌倉時代・13世紀、法隆寺蔵、奈良・東京会場とも後期)や、《善光寺如来御書箱》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵、東京会場のみ)も出品されている。
重要文化財《聖徳太子像(孝養像)》(鎌倉時代・13世紀、法隆寺蔵、奈良・東京会場とも後期)
《善光寺如来御書箱》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵、東京会場のみ)
第5章は「法隆寺金堂と五重塔」。金堂は7世紀後半に建てられた世界最古の木造建築として知られ、内陣は奇跡の空間だ。五重塔は仏舎利を祀った建築で、内部には釈迦の生涯などを表した塔本塑像が安置されている。。
国宝の《薬師如来坐像》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵)は、金堂東の間の本尊。口もとに微笑を浮かべた神秘的な顔立ちや、文様的な裳懸座などに飛鳥時代の様式美を示す名品である。
国宝《薬師如来坐像》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵)
やはり国宝の《四天王立像 多聞天》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵)は、金堂の内陣四隅を守護する日本最古の四天王像。厳しい眼差しを持ちながらも、動きの少ない静謐な姿や、うやうやしく天王を背中に乗せる邪鬼の姿は独自である。国宝の《四天王立像 広目天》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵)も出品されている。
国宝《四天王立像 多聞天》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵)
有名な国宝の《玉虫厨子》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵、奈良会場のみ)は圧巻だ。須弥座上に宮殿を据えた形の厨子。宮殿を飾る透彫金具の下に玉虫の翅(はね)が敷かれることからこの名がある。宮殿や須弥座には、霊鷲山(りゅうじゅせん)、須弥山(しゅみせん)、釈迦の前世の物語である本生譚(ほんしょうたん)などの絵が描かれ、わが国の古代仏教工芸を代表する一品だ。
国宝《玉虫厨子》(飛鳥時代・7世紀、法隆寺蔵、奈良会場のみ)
このほか、宮殿の中の極楽浄土を表わした国宝の《伝橘夫人念持仏厨子》(飛鳥時代このほか、宮殿の中の極楽浄土を表わした国宝の《伝橘夫人念持仏厨子》(飛鳥時代・7~8世紀、法隆寺蔵、東京会場のみ)や、国宝の《塔本塑像 羅漢坐像羅漢坐像》(奈良時代・和銅4年 711年、・法隆寺蔵)など、国宝が目白押しだ。
国宝《伝橘夫人念持仏厨子》(飛鳥時代・7~8世紀、法隆寺蔵、東京会場のみ)
国宝《塔本塑像 羅漢坐像羅漢坐像》(奈良時代・和銅4年 711年、法隆寺蔵)
神戸市立博物館の特別展「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」
10年かけ制作の障壁画全68面を再現展示
こちら奈良・西の京にある南都六宗の一つである律宗の総本山・唐招提寺は、唐僧の鑑真和上によって創建された。和上の入滅に際し造立された国宝の《鑑真和上坐像》が御影堂に安置されている。その「唐招提寺御影堂障壁画」を描いたのが近代日本画を代表する巨匠・東山魁夷で、記念碑的大作となった。
鑑真和上像
御影堂の障壁画は、鑑真和上の命日にちなんで行われる開山忌舎利会の数日間しか公開されることはないが、今回の展覧会では障壁画全68面を再現展示で公開するとともに、制作過程を示すスケッチや下図も合わせ出品されている。完成に至るまでの制作過程と東山の長年の宿願であった水墨による障壁画の壮大さ、鑑真和上に捧げた祈りの美に触れる絶好の機会だ。なお障壁画は通期展示だが、スケッチや下図など関連資料は会期中(前期~5月16日、後期5月18日~)に展示替え。こちらもコロナ対策で、館内の混雑状況によっては、入館、入室を制限する場合がある。
東山魁夷(1908-1999)は、横浜で生まれ、3歳の年から東京美術学校に入学するまでの少年時代を神戸で過ごしている。ドイツ留学の後、太平洋戦争への応召、肉親の相次ぐ死といった試練に見舞われるが、そうした苦難のなか風景の美しさに開眼し、戦後は主に日展を舞台に、清澄で深い情感をたたえた風景画により、日本画壇に大きな足跡を残した。自然と真摯に向き合い、思索を重ねながら《残照》や《道》などの風景画の名作を数多く発表している。
第二期障壁画《揚州薫風》を制作中の東山魁夷
5度の航海失敗や失明を乗り越えて、6度目に来日した鑑真和上(688~763)の業績については、当サイト(4月1日 クリックで表示)を見ていただきたい。1964年、鑑真和上千二百年忌を記念して《鑑真和上坐像》を安置する御影堂の建立が念願され、1970年に障壁画の制作が東山に託される。東山が制作を正式に承諾したのはその翌年だった。
東山魁夷は、御影堂の障壁画制作にあたり、日本の風景の象徴として上段の間に山を、宸殿の間に海を描くことを構想する。東山は日本各地を旅して海と山のスケッチに没頭し、これらをもとに構図をまとめ、小下図から中下図、割出図、大下図、本制作へと進めてゆく。さらに本制作と同じ材料を用いて5分の1試作もした。
唐招提寺の御影堂内
障壁画は、5つの部屋にある68面の襖と床の壁面からなり、それらに《鑑真和上坐像》を収める厨子内部の扉絵を加えると80メートルを超える長大な作品で、2期に分けて制作され、構想から完成に10年もの歳月を費やした。
神戸市立博物館での障壁画
1期は、御影堂正面に位置する宸殿の間の壁画として、雲煙が立ち込める山景《山雲》と、上段の間に波が大きく打ち寄せる海景《濤声》を1975年に制作。2期は、鑑真和上の故国の風景をイメージした障壁画の《黄山暁雲》(桜の間)をはじめ、《揚州薫風》(松の間)、《桂林月宵》(梅の間)を1980年に奉納。その翌年、松の間に据えられた厨子の扉絵《瑞光》が納め、全体が完成した。
《唐招提寺御影堂障壁画 濤声》部分(1975年、唐招提寺蔵)
《唐招提寺御影堂障壁画 濤声》部分(1975年、唐招提寺蔵)
《濤声》試作(1974年、長野県立美術館 東山魁夷館蔵)
展覧会は、第1章が「御影堂障壁画」、第2章が「御影堂障壁画への道程」。再現展示といっても、実際の配置とは異なる。しかしスケッチや下図などと対照できる展示となっていて、東山の取り組みや、制作過程を鑑賞できる。3階の特別展示室から始まり、盲目となった鑑真が、実際に目にすることの叶わなかった日本の風景を題材に描いた《濤声》や《山雲》は、青を基調とした彩色画で、“青の画家”とも称された東山の清澄な世界が広がっている。鑑真の故国の風景を描いた《揚州薫風》と《桂林月宵》(いずれも部分)が続く。
《唐招提寺御影堂障壁画 山雲》部分(1975年、唐招提寺蔵)
《唐招提寺御影堂障壁画 山雲》部分(1975年、唐招提寺蔵)
2階の南蛮美術館室でも、鑑真の故国の風景をイメージした障壁画《黄山暁雲》や《揚州薫風》、《桂林月宵》を中心に展開する。これらは中国の壮大な風景をモノクロで描いたものだ。さらに上段の間の床の間を飾る《山雲》を再現し、ここでも制作過程を示すスケッチ等が展示されている。
中国の風景を描いた再現展示
《唐招提寺御影堂障壁画 桂林月宵》部分(1980年、唐招提寺蔵)
《唐招提寺御影堂障壁画 揚州薫風》部分(1980年、唐招提寺蔵)
最後の展示会場である2階の特別展示室2においては、御影堂の松の間に安置された《鑑真和上坐像》の厨子の扉絵の試作を紹介(前期のみ、後期はパネル展示)している。
東山がこの障壁画制作のため描いたスケッチは100点以上を数える。このうち第1期制作の山海の風景16点と第2期制作の水墨による中国風景20点が出品されている。これらは本作と同じ材料で描くことによって、手順や表現方法を確認することを目的としていた。