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国献男子ほんわか日記56 第5の政治文書を期待します
国際協力実践家 小島康誉1月28日、中国大使館など主催「新年会」に出席しました。程永華大使「双方が積極的に往来し、未来を 見通せる発展に力を入れねばならない。交流の基礎は民間にある」、丹羽宇一郎日中友好協会長「世界全体が乱気流の中にあるが、日中関係を皆で良くしよ う」、河野太郎外務大臣「新たな段階に押し上げよう」などと挨拶。日中関係の改善が進む中、スポンサー?提供「マオタイ」も出て和やかなひと時でした。
世界は激動しています。米・英・仏・独・露・印・韓……どこも大変ですね。日本は5月1日、改元されます。中国は10月1日、建国70周年を迎えま す。日中両国にとっても節目の年ですね。昨年は安倍晋三首相が訪中、今年は習近平国家主席の訪日が実現しそうです。6月28、29日のG20大阪サミット 開催に合わせて検討されているようです。
日中両国間には4つの政治文書があります。1972年国交正常化時の「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」、1978年の「日本国と中華人 民共和国との間の平和友好条約」、1998年の「平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言」、2008年の「戦略的互恵関 係の包括的推進に関する日中共同声明」です。現在の関係改善の流れを確固たるものとするためにも「第5の政治文書」調印を期待します。中国で国際協力を 36年にわたって実践してきた一庶民の心からの願いです。
さて、拙著『中国新疆36年国際協力実録』、 国際協力という特殊分野の大型本としては「順調」「そこそこ」のようで感謝しています。「文庫本ならベストセラー間違いなし」と友人、ありがたい励ましです。先日ある会合で質問をいただきました。「日本語の書名と中国語や英語の表記が異なっているのは何故? 冒頭部分で墨書きしている中国語の意味は? 各 章の初めの写真に説明がついていないので、教えて欲しい」にお答えします。
『中国新疆36年国際協力実録』4~5・7頁より
中国が提唱している「一帯一路」の一部であるシルクロード新疆での国際協力ですので、「一帯一路での実践図鑑:キジル・ニヤ・ダンダンウイリク」を 中国語で表記しました。欧米人にはシルクロードの方が分かりやすいので、「シルクロード:キジル・ニヤ・ダンダンウイリク」を英語表記しました。これらは 書名でなく内容説明のようなものです。
下手な字を書いているのは墨でなく水です。「小島和尚を囲む会」の諸氏と新疆を巡った時、ウルムチ市中心にある紅山公園で写真の私の左の男性がパフォーマンスで書いており、見ていたら「何か書いて」と求められ「大愛無疆」(大きな愛に境界は無い)と書きました。
私が提唱している「ありがとう一日100回運動」の具体的実践として役立つことをやろうに通じ、アメリカで言われているRandom Acts of Kindness(いつでも誰にでも親切な行いを)と同じ趣旨です。書き終えたら見物人から拍手をいただきましたが、彼からは「無はこうは略さないヨ」と 言われました。中国では時々見かけるパフォーマンスで、水はすぐに蒸発して消えます。
『中国新疆36年国際協力実録』15・19・55頁より
Ⅰは新疆ウイグル自治区の中心都市ウルムチ市の一角です。中国の奥地もこのように大発展しています。Ⅱは修復なり世界遺産となったキジル千仏洞と鳩摩羅什三蔵の像です。テレビ番組の撮影中で、フジTV系で全国放送されました。Ⅲはニヤ遺跡の住居址です。およそ2000年をへて今なお残る世界最大の木造都市「精絶国」。世界遺産に登録されますように。
『中国新疆36年国際協力実録』157・221・245頁より
Ⅴはダンダンウイリク遺跡BC近くの砂丘に隊旗を立てている隊員たち。方向感覚を失いがちの大沙漠での安全確保の目印です。Ⅵは新疆大学小島奨学金30周年の際、贈った「七言絶句」です。友人の中国人に手伝ってもらい作りました。Ⅶは長崎平和公園にある平和を願う乙女像です。中国から寄贈されました。同じ像が北京の復興門近くにあります。なおⅣは調査隊員の吉崎伸・浅岡俊夫・田中清美・安藤佳香各氏からの寄稿エッセイで、章としての写真はありません。
誠ひとすじ 歳さん!没後150年
今年は土方歳三(1835-69)が函館(当時は箱館)で散ってから150年です。新選組(新撰組とも)副長として近藤勇隊長らと京都守護にあた り、戊辰戦争では旧幕府軍として各地を転戦。最後の戦い五稜郭戦で銃弾を受け戦死。享年34歳。出身地の東京日野はじめゆかりの地で記念行事が行われます。
小僧楽書:背景は鴨川三条大橋(撮影:筆者)
義と誠に散った人生ですね。会津藩主松平容保公は幕府の命に家老らの猛反対をおしきり、藩祖遺訓「将軍のことを一心忠節に励むべし」を守り、京都守 護職となり、兵一千を率いて上洛。京都所司代と京都町奉行所の出迎えを受け、三条大橋から本陣をおく金戒光明寺まで威風堂々の行軍は4キロ余り続き、群衆 は人垣をつくり「これで都が静かになる」と安堵し大歓迎したそうです。
孝明天皇の信任あつく宸翰を賜るほど治安維持に尽力するも、鳥羽伏見の戦いに敗れ賊軍となり、会津戦では遺体を埋葬することも許されず、不毛の地と言われた斗南(現在の青森県・岩手県の一部)に移封され……忠義の会津側からすると無念につきるでしょう。「国献男子ほんわか日記」第28回で詳しく紹介しています。珍しい写真も載せています。
その京都守護職お預けとして戦った新選組。義と誠に生きた男たち。歳さんら新選組の評価はいろいろのようですが、根強い人気がありますね。私もその一人で、東京・京都・会津・函館の関連先を巡り歩きました。写真は新選組がつけたと言われている刀傷の残る三条大橋です。
組旗「誠」に込められたその心。彼らの歴史的評価は別として、私はこれからも「誠ひとすじ」で生きていきます。ほんわかほんわか。